原忠順文庫資料展に寄せて  法文学部教授 金城正篤


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  原忠順(はら ただゆき 1834ー94)。肥前鹿島藩(佐賀県)の出身。1879年(明治12)4月沖縄県少書記官に任命され、初代沖縄県令鍋島直彬(旧鹿島藩主)と共に翌五月に着任。翌年六月に大書記官となり、1882年(明治14)9月辞任するまでの2年半、鍋島県令の片腕として置県直後の困難な状況のもとでの県政運営にあたった。

 年譜によれば、原は幼少の頃からとりわけ「文学」に傾倒していたらしい。1854年(安政元)には江戸邸にあって、藩主に近侍して執務するかたわら、薩摩の重野安繹・伊地知正治に就いて学問を学んだ。翌年には藩命で昌平黌に入って「文学に従事」したとある。その時に交わった人物の中に長州の高杉晋(新)作の名が見える。

 1859年(安政6)藩主の襲封に従って帰郷し、翌年(万延元)には側頭兼侍講、つまりは藩主のブレーンの地位にいて、藩主の文武更張の政策を推進するととも、藩政改革の衝にあたった。1863年(文久3)薩摩・肥後・肥前三藩による公武合体の建白書の奏聞のため、宗(佐賀)藩主の名代を兼ねて上京している。1866年(慶応2)には家老に抜擢され、幕末の難局を舵取る重要なポストに立つ。

 1869年(明治2)には鹿島藩大参事に任じ、藩知事直彬を補佐し藩政改革を進めた。廃藩置県の翌1872年(明治5)8月、直彬に随行してアメリカに留学、翌年五月に帰朝後、『米政撮要』を著わす。74年(明治7)5月左院五等議官、翌年左院が廃され、その翌年には東京を引払って帰郷している。

 やや煩雑にわたったが、ほぼ以上が沖縄県少書記官に任ぜられるまでの原忠順の経歴である。なお、沖縄を去って後、1890年(明治23)に佐賀県から第一回貴族院多額納税者議員に当選したが、1894年(明治27)故郷で直彬らに見守られながら61歳の生涯を終えた。ところで、沖縄の廃藩置県が全国に布告されたのが1879年(明治12)4月4日、鍋島直彬・原忠順がそれぞれ沖縄県令・少書記官に任命されたのが翌日の4月5日のこと。新設の沖縄県の県令には華族から選出したい、というのが明治政府の意向であったようだ。その白羽の矢が立てられたのが鍋島であった。そして鍋島はぜひとも原を書記官として同行したいと願った。年月日の記載はないが鍋島が沖縄県令に指名されたいきさつについて、鍋島から原に送られた書翰には次のように記されている。

 過日已来の琉球一件、追々切迫、廟議遂に廃藩置県の事に決し、……直ちに県令を撰ばれ、廃藩置県の号令発表相成り候内決にて、琉球県令たるべきもの、内閣に於ても段々評議之れ有り候由の処、琉球は極めて門地を尊び候国につき、成るべくは華族中より命ぜられ候方然るべくとの議にて、人撰相成り候処、……(右大臣岩倉具視より)何卒直彬に奮発致し呉れ間敷哉との趣意、柳原議官を以て懇々たる内諭にて、……何分国家の大事件、亜細亜歴史の一大変革に当り、……該新県の令たるもの士族にて然るべからず、華族より遣わすべし。しかして華族中にても、鍋島にあらざれば平凡のものにては、迚も任に堪ゆるべからずとの見込みを以て、右大臣より内意之れ有り候を、辞退候ては残念の次第につき、……及ばずながら尽力仕るべくと御請け申し上げ候。……願くは平生の好誼を忘れられずば、一日も速やかに上京相成りたく、将来互いに幾分か我が大日本に鍋島ならびにその旧臣に原というものある事も世人承認し、……且つ大丈夫たるもの此の大事件に当り、その力を尽すは極めて愉快の義につき、何卒必ず至急上京、直彬を助けられたく、懇願是の事に候……
(片仮名を平仮名に変え、句点・濁点を付すなど読みやすくしてある)

 門地を貴ぶ沖縄の民心を収攬するには、県令には華族を派遣するのが得策だ、ということで結局鍋島が選ばれたのであるが、鍋島も断われずに原を同行することで拝命した。ちなみにこの時、鍋島県令が36歳、原少書記官が45歳。鍋島は10歳も年上の原を尊敬し、常にその教示を仰いでいたことが、原に宛てた鍋島の書翰などから読み取れる。のち自分の後任に原を沖縄県令に推薦したが、政府の容れる所とならなず、後任の二代目県令には上杉茂憲が就任する。

 原忠順関係文書には、日記・書翰、県内情勢に関する報告書、原自身の漢詩文、漢籍、古書、古文書の写し、書画の掛け軸、等々が含まれている。若い頃から「文学」に傾倒したこともあって、自作の漢詩等を数多く残している。また、とりわけ置県直後の沖縄の政治・社会状況を伝える生々しい記録は貴重である。

 新設されたばかりの沖縄県に着任した鍋島県令と原少書記官を悩ませたものの一つは、旧三司官をはじめとする旧王府役人を含む士族層、および各間切地頭代以下地方役人の県政への非協力的態度であり、もう一つは薩摩の寄留商人等の跋扈であった。

 1881年(明治14)1月21日付で大書記官・県令連名で、内・蔵両卿宛に提出された「内申」書には、士族たちが「盟約」を結んで県庁の指揮に従わず「愚民を誑惑」し、ほしいままに「公租を私収」するなど、「陰悪の所業」が、「探偵」によって摘発されたにもかかわらず、彼らを悔悟・威服させるのは容易ではない、と嘆いている。また同じ文書で寄留商人等が県政を誹謗している現状に触れて次のように述べている。

 辞職セシモノ、或ハ諭旨辞職セシメシモノ、又不都合ノ所業アリテ免職セシモノ、且ツ是等ノ私党及他府県ヨリノ寄留商人等ノ中、無根ノ説ヲ宣布シ種々讒謗誹譏ヲ事トシ、私怨ヲ以テ頻リニ小官等ノ栄誉ヲ汚涜毀損セントス……

 鍋島県令は属僚30余名を従えて着任したといわれる。他県の者から見れば、県令の郷党が県政を壟断していると見たのも無理はない。これが「讒謗誹譏」の原因であり、そのことが中央政府にも聞こえていたのであろう。辛くいえば、先の内・蔵両卿宛の「内申」書は、そのことについての弁明書であり、同時に鍋島更迭の遠因にもなったものと考えられる。

 今回は、とくに沖縄県書記官として在職した時期の、原忠順関係の文書を重点的に展示して、置県直後の沖縄県の社会状況を垣間見るよすがとしたい。


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