フランスにおける琉球関係資料の調査

学長 森田孟進

 1997年度から3年計画で、文部省科学研究費 (国際学術調査) によって、フランスにおける琉球関係資料の発掘調査をグループで行ってきた。今年度 (1999年度) が最後の締めくくりの年である。現在、収集した全資料の整理・翻訳・研究のまとめにとりかかっていて、2000年の春には成果を公刊することになっている。
 共同研究のメンバーは赤嶺政信氏 (琉球大学教授・民俗学, 本研究の代表者)、パトリック・ベイヴェル Patrick Beillevaire 氏 (フランス国立社会科学高等研究所教授・民俗学・琉球研究)、川平博一氏 (琉球大学教授・言語学)、渡名喜明氏 (那覇市立壺屋焼物博物館長・宗教学・民芸)、豊見山和行氏 (琉球大学助教授・歴史学・琉球近世史) 及び私 (フランス文学・比較文学) の計6人である。私自身をまず棚に上げて言えば、5人とも一癖も二癖もある個性的で優秀な研究者たちである。
 初年度の資料収集はたいへん稔り多いものであったと自負している。その原動力となったのはパリ在住のベイヴェル氏であった。氏は1997年の時点ですでに10年の年月をかけて琉球関係資料の発掘にあたっていたからである。資料の所在を知っている氏の案内で我々はフランス国立図書館、パリ外国宣教会、海事資料館、人類博物館、大学共同利用東洋語図書館等を訪ねた。資料の所在を求めて移動する道中、パリの歴史と建築物に詳しい氏はしばしば立ち停まって指さしつつ我々に説明してくれるのだが、その説明ぶりに感嘆して、「いつでもプロのガイドになれるね」 と私がいうと、氏は黙ってうなづいていた。私はホテルの近くの古本屋で『古パリ案内』という一冊を買い込んだが、2週間のパリ滞在中この案内書を読む余裕は全くなかった。
 初年度の最大の収穫は第一に、1844年から1862年まで断続的に琉球に滞在した8人の宣教師たち (Forcade、Le Turdu、Adnet、Furet、 Girard、Mermet、Petitjean、Mounicou) が琉球やマカオ等からフランスへ書き送った書簡をマイクロフィルムに収めたこと、第二に1846年運天港におよそ2ヶ月も滞在したセシル(Cecille) 提督の書簡を蒐集したことであろう。
 宣教師たちの書簡は判読がきわめて困難な状態にあるが、ベイヴェル氏が活字化してパソコンに収め、それを我々が日本語に訳する作業を進めているところである。A4版ですでに350ページ (仏語) に達する量である。セシル提督は琉球国と通商條約を結ぶための交渉をしつつ、運天港の測量調査をしていて、当時の運天港図等も残しているが、その読解はこれからの作業のひとつとなっている。
 琉球に滞在した仏人宣教師フュレに関する研究業績としてはベイヴェル氏単著の『明治維新前夜の琉球及び日本における宣教師ルイ・フュレ (1816−1900)』(“Un missionnaire aux Ryukyu et au Japon la veille de la restauration de meiji”、Eglise D'Asie刊) が今年 (1999年) 2月に刊行された。全248ページ、フュレの伝記、書簡等の資料が収められている。長年にわたる資料探索に裏打ちされた研究成果である。注、書誌には氏の蘊蓄のほどが良くうかがえる。これまでヨーロッパの文献に出た挿絵・写真等の中でも珍しいものが44葉収録されているのも楽しい。
 フランスにおける琉球関係の資料としては、琉球王朝がフランスのインドシナ艦隊のセシル提督やゲラン (Gerin) 准将、あるいは宣教師たちへ贈った“物”の探索も調査作業のひとつである。宣教師たちが独自に蒐集し持ち帰った物もあるであろう。また、1867年のパリ万国博において、薩摩琉球国の名で出品された琉球特産の漆器等はフランスに残っていないだろうか。
 残念ながら、現在のところ、パリの人類博物館 (Le de I'homme) で琉球古典焼数点を確認したことにとどまっている。これらの古典焼は1939年に那覇で焼かれたもので、飾皿、カラカラー、ツーカー、酒杯、湯飲み等であるが、カタログ記載品目の大半は、失われてしまったのか見出せなかった。なお、素人の私にはその価値は解らなかった。近いうちに渡名喜明氏による報告が出ることになっている。琉球王府は当時来琉した異国の人々に対して薪水、食料 (豚、ニワトリ、卵、野菜など) は代価を取らずに提供しているが、琉球の優れた特産品は贈らなかったのではないか、との見方がある。通商をことわるために、琉球には通貨もなく、交易のための特産物もない、と繰り返して言っていたからである。しかしながら、我々の探索が現時点でなお不充分であることも事実である。
 2年目の収穫のひとつはシャルル・アグノエル (Charles Haguenauer) の琉球調査ノート7冊 (うち1冊は小型の手帳) をコレージュ・ド・フランスの図書館にて発掘し、複写したことであろうか。
 アグノエルは日本・朝鮮の言語文化担当のパリ大学教授であった (1896〜1976)。琉球に関する論文も管見に入った限りでは7篇ある (ゴレス論争関係、随書流求国論争関係の筆峰鋭い小論をはじめ、琉球における死の表象の特徴に関する有名な論文等)。その大著『日本文明の起源』(1956) では琉球における葬式についての記述があり、久高島の風葬の写真 (遠写) を含む琉球関係の写真が8葉収められているので、アグノエルが1930年 (昭和5年) 3月・4月に琉球で撮った写真、収集した資料の行方を探索することも今回の調査課題のひとつであった。
 アグノエルの蔵書はコレージュ・ド・フランスに寄贈されているので、コレージュ・ド・フランスの日本高等研究所長プチマンジャンーマツザキ女史及び図書館員の全面的な協力を得て、未整理のダンボール箱の中の写真、ハガキ、手紙、新聞切り抜きをみることができた。アグノエル自ら撮った九州地方の神社・祠・民家等の写真が数多くあったが、沖縄に係るものと思われるものは見出せなかった。調査の2日目、アフリカ人留学生J君 (非常勤職員) が地下から運んできて、“”(はい、これ) と私の前に置いた一束の資料の中に“Voyage auxRyukyu”という文字を見た時には手が震えた。ITOMANと表紙に書かれたノート・ブックが出てきた時には足も震えたが、コレージュ・ド・フランス図書館2階の小部屋が10月だというのに冷えこんでいたせいばかりではなかったろう。
  「琉球への旅」 と記された手帳には3月1日午前11時に大阪で上船し、名瀬経由で那覇に着くまでのメモ、那覇着後、Baron Sho(尚男爵) の知遇を得て、尚家文書を閲覧したことなどが、あくまでメモ風に記されている。歓迎夜会が辻の yukaku で催され、その席でアグノエルは琉球舞踊も鑑賞している。ノート6冊に仮に番号を附して、どの地方で古老、ノロらから聞き取り調査を行ったか次に掲げておく。ノートNo.1. 糸満、No.2. 首里、No.3. 玉城、知念、久高、No.4. 瀬嵩、恩納、その他、No.5. 今帰仁、辺土名、No.6. 糸満、名護、首里 (方言調査メモ)。
 アグノエルによるこれらの調査ノートが今日どのような意味を持つかについては専門家の判断を待たねばならない。ノートを活字化し、さらに日本語に訳す作業も必要となろう。ただし、公刊するにあたってはあらためて御遺族とコレージュ・ド・フランスの許可が必要であることをここに明記しておかねばならない。
 2年目からは未刊行資料にとどまらず、既刊の古書で琉球関係の記述があるものは努めて購入することにしたが、第一に古書との出会いがきわめて稀であり、出会いがあっても予算上の都合もあってなかなかままならならぬのが実状である。パリの東洋学専門の古書店Zの主人X氏は大学ではアラビア語を専攻し、仏国外務省が世界の多くの国で設立しているフランス語・フランス文化を教える学院の教師だったことがあり、東京日仏学院で教えたこともあり、カタコトの日本語を話し、古書の講釈を早口のフランス語でまくしたてた後で 「安い!」 と日本語で叫ぶのである。私たちは陰では 「ムシュー・安い」 と呼ぶことにした。私たちはモンパルナスのホテルのフロントのチーフにも 「ムッシュー・無愛想」 というあだ名をつけたものだ。
 古書店Zの主人X氏は職業柄とはいえフランスにおける東洋学の歴史に詳しい。私は多くのことを彼から学んだ。資料蒐集課程での余得である。この店の奥さんはパリ東洋語学校で中国語を学んだ方で大変美しい人である。黙ってパソコンに向かっているが、主人と私の話が時としてもつれるといつも私の見方をしてくれる、と私は一人で思い込むことにした。この古書店では稀覯本のケンプフェル『日本史』(全3巻、1763年刊、仏語版小型本) を3日通って3日目に 「エイッ!」 と言って買った。デュモン・デェルヴィルの旅行記の探索など古書の話は尽きないが、ここではこれ以上続けないことにする。
 3年目に入ってリィル市立図書館でのリサーチで心温まるうれしい経験をした。レオン・ド・ロニ文庫の蔵書を司書の方が特別な好意でもって閲覧させてくださったので、「パリとは違うな」 と大いに感激しているところへ、22、3 歳の若い司書が近づいてきて、私の耳元で小声で 「あなた方は沖縄からいらっしゃったのか」 ときくので、話が発展しはじめ、一般閲覧室で話を続けることをはばかって、キャフェに席を移して懇談したところ、この青年は図書館員養成機関として名高い国立古文書学校を1月前に卒業したばかりで、D・E・A (博士課程1年次修了資格) の論文として『ギゾーのフランスと極東』(1840〜1848) をまとめ、その中でセシル提督らの琉球への航海関係資料を利用したという。アレクサンドル・アラン君という名のこの青年はパリ行の列車のコンパルトマンまで私たちに同行し、美しいリィルの街を案内する時間がないことを残念がった。
私はパリで福沢諭吉らと知り合うレオン・ド・ロニの姿をくしくも想い起した。アラン君は前述の論文 (361頁) を最近私に送ってきた。Oukiniaを見出しとする節もある。アラン君が琉球研究に手を染めればベイヴェル氏につぐ優秀な研究者になることは疑いようがない。私は楽しい夢を見はじめている。
(もりた もうしん:フランス文学)

パリ万博会場の案内図 パリ万博会場の案内図
〈挿し絵の説明〉
 1867年パリ万博会場の案内図の一部、中央上部に 「支那」 のパビリオン、その左側に 「日本館」、右側に 「薩摩藩」 のパビリオンがあり、支那小径と交わる形で琉球小径 de Lioukiou とある。ベイヴェル氏所蔵。
沖縄調査ノートの表紙

沖縄調査ノートの表紙
〈挿し絵の説明〉
 アグノエルの沖縄調査ノート6冊のうちの1冊、糸満編、1930年3月。コレージュ・ド・フランス所蔵。

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セシル提督の手紙 セシル提督の手紙
〈挿し絵の説明〉
 セシル提督の手紙。1846年7月10日付、運天港のクレオパトル号にて、中山(首里) の総理大臣宛。フランス国立図書館海事資料館所蔵。