琉球大学附属図書館のあゆみ −シリーズ6−
(32巻1号より続く)

豊平 朝美

1980年代 2
首里市民へ図書を送る運動

 昭和50年5月、首里キャンパスから現在の千原キャンパスへ、第1陣として農学部附属農場が移転し、その後、次々と各部局が移転した。昭和59年10月、附属病院の与儀キャンパス(現在の県立那覇病院所在地)からの移転を最後に、移転事業が完了した。その「移転完了記念事業」の一環として、旧キャンパス時代にお世話になった首里周辺の地域住民への感謝のしるしとして、那覇市立首里図書館へ図書を贈る「贈書運動」を実施することになった。「贈書運動」は首里文化祭(11月3日)までに出来るだけ多くの図書を贈ろうという計画で、昭和60年9月2日より10月31日までの2ヶ月にわたり、附属図書館の受入係を受入窓口にして、学内の教職員、同窓会に図書の寄贈を呼びかけた。事務局の運動と、教職員、卒業生の首里キャンパスヘの懐旧の念とが重なってか、事務局、学部事務室、同窓会、図書館等195名から児童書を主体に文学書、一般教養書、沖縄関係図書等3千余冊の様々な多数の資料が寄贈された。
 同年10月31日に那覇市立首里図書館で目録贈呈式が執り行われ、東江学長(当時)より寄贈図書の目録が那覇市教育委員会教育長に手渡された。これに対し、那覇市教育委員会教育長、地域住民代表らが、「地域の文化の向上のために役立てたい」とお礼の言葉を述べた。
 「移転完了記念事業」は7項目からなり、昭和60年5月22日の開学記念日から昭和61年5月22日までの1年間を「琉球大学移転完了記念年」として、新キャンパスでの「首里の杜」の造成や附属図書館の「志喜屋記念図書館」の呼称決定等を含めた諸事業がその間に実施された。
(「琉球大学移転完了記念事業趣意書」、「琉球大学学報第209号」及び1985年11月1日 「琉球新報」記事参照)

贈書運動のポスター 那覇市立首里図書館
贈書運動のポスター 那覇市立首里図書館

Kerr(カー)文庫

 附属図書館が、開学以来収集してきた沖縄関係資料の中に個人等の寄贈による十数点のコレクションがある。入手の経過等について「びぶりお」で一部紹介してきたが、その他の主要コレクションに Kerr文庫 がある。これは沖縄研究で有名な米国ペンシルベニア州生まれの歴史学者ジョ−ジ・H・カ−(George H. Kerr)氏の蔵書の一部であり、琉球大学開学後の1955(昭和30)年から死去する直前の昭和62年(8月28日浙去)にわたって、継続的に寄贈された資料の中から沖縄関係資料だけを抜き出したものである。カー氏の著書「Ryukyu:kingdom and province before 1945」の訳本が「琉球の歴史」として 1956年に米国民政府より出版され、県内各市町村に無償配布された。民政府から図書館に搬入、図書館で保管していた約2,500部の「琉球の歴史」は、図書館はその有効利用のため、琉球大学の職員と学生希望者に一部づつ配本するようにしたようである。(「沖縄大百科事典」所収の宮城悦二郎氏執筆論文及び附属図書館蔵「昭和32年11月3日付け図書館より学長宛文書」参照)。
 Kerr文庫の中には図書資料、写真集、切り抜き、スライド、マイクロフイルム等があり、珍しいものに「わら算」の雛型がある。このわら算について、カー氏の説明文(英文)がある。
 わら算の雛型は八重山竹富島の博物収集家上勢頭亨(うえせど とうる)氏がカー氏のため、一式作成したようである。わら算とは琉球王府時代の文字を知らない村人の記録法であり、村人が文字と算数のかわりに結縄法によって使用した。その後、首里王府への報告書をまとめるため、村役人によって使用されたが、明治12年(1879)の沖縄の廃藩置県後は、初等教育の普及と共に、廃れていったこと等が記されている。わら算は種々の結び方で判別する方法をとり、租税の徴収記録、儀礼時における金品の授受などに用いたとあり、カー氏は雛型のわら算についてその意味を一つ一つ詳しく説明している。
(「沖縄大百科事典」及び岡本淳子氏訳「南琉球諸島 (先島) において用いられた結縄式記録法」:「びぶりお」19巻4号所収参照)
 カー氏のその他の寄贈の中で、骨董品的な資料として、1983(昭和58)年11月23日に本学へ送付された10枚の江戸時代の小判(複製品らしい)がある。カー氏は日本経済史を学ぶ学生にとって関心があるのではないかということで琉大に寄贈したようである。カー氏の他の書簡によれば、カー氏は沖縄県立博物館にも狩野探幽や谷文晁 (江戸時代の画家) の名画等を寄贈している。また、カー氏関係資料は沖縄県公文書館にも所蔵されている。

藁算の雛型 江戸時代の小判
藁算の雛型 江戸時代の小判

○カー氏の尽力によるハミルトン図書館蔵書の寄贈
 収容スペ−スの関係から、処分寸前だったハワイ大学のハミルトン図書館の蔵書がカー氏の尽力により、琉大に寄贈されることになった。カー氏の呼びかけに応じたハワイの沖縄県人会の献身的な協力があって実現されたが、瀬名波榮喜図書館長(現名桜大学副学長)とカー氏との密接な連絡・交渉の中で、昭和60年2月13日、5,000余冊の膨大な資料が本学に送られてきた。江戸時代から昭和期に至るこの資料は既に一部が虫害に侵されていたことから、到着前に24時間の薫蒸処理が施された。ハワイ県人会の意向も踏まえ本学の他に、県内の沖縄国際大学、沖縄県立図書館、那覇市立図書館にも琉大を通じて配布された。琉大に寄贈された2,322冊の中で、和装本の古文書には、最も古いものは1635年の「法眼の生涯と教え」で、その他に「高知名所図絵」等がある。数量的には少ないが貴重な琉球筝曲工工四(琉球筝曲の譜本)等沖縄関係資料も含まれている。(「びぶりお」18巻1号および「琉球新報」記事1985.2.15収載参照)

George H.Kerr (1911.11〜1987.8)
沖縄タイムス社提供

George H.Kerr氏

○カー氏と本土・沖縄との関わり
 それではカー氏が、どうしてこの沖縄に終生関心を寄せたのだろうか。それを示すカー氏の書簡がある。
 1983(昭和58)年12月5日に、ハワイのホノルルからカー氏が本学へ来学したが、その日の夕方の懇親会で、当時の宮城学長及び瀬名波館長等と同席していた平良恵仁図書館事務長がカー氏に「どうして貴殿は琉球に関心を持たれたのですか」という質問に端を発する。その時、カー氏は明解な回答が出来なかったようで、1984(昭和59)年2月20日付のカー氏の英文書簡に、平良事務長宛の返事が記されている。その書簡には、カー氏自身と沖縄や日本本土との関わりについて回顧的に書かれている。以下は書簡の概略である。

 カー氏が終生東アジアに関心を持つようになったのは、1929年にヴア−ジニアのリッチモンド大学1年生の時に、古代史の授業を受け、カー氏の隣の席の中国人のリ−という学生と親友になった事から始まる。教授が古代ギリシャ、古代ロ−マ等について講義している時、「この西洋史の卓越した時代に中国では何が起きていたのか」というカー氏の質問に、教授は答えることが出来なかったようである。その時、カー氏は専門領域として「東洋史」をやろうと決心した。1931年、大学を変更して、フロリダのロリンズ大学に行ったが、そこでも教授逹はアジアについては何も知らなかった。卒業した時(3年間の学部課程終了後の1932年)、カー氏の友人達は大部分はヨ−ロッパへ行ったが、カー氏はアジアへ行こうと決心した。折しも経済恐慌の最中で、カー氏の家族も相当打撃を受けていた。カー氏は生活費の安かったフロリダへ帰り、ふた冬を過ごした。幸いな事に、退職した著名なイエ−ル大学の教授の私文庫に接する機会があった。教授は長い間、中国で過ごし、中国、日本、インドに関する貴重な図書のコレクションを持っていた。そこでカー氏は2年過ごし、読書に明け暮れた。
 カー氏はイェンチェン大学 (北京) での奨学金を受けることになり、(中国への)出発の準備をした。途中、活火山を見るためハワイに2週間立ち寄る予定で、ハワイ、横浜経由で中国行きの切符を買った。サンフランシスコからハワイへ向かう船の中で、多数のハワイ大学の若い教師に出合ったが、カー氏が彼等にハワイ島についての質問をしたら、興味ある話をしてくれた。ホノルルに着くと、ハワイ大学で「太平洋史」と「アジア史」の内で提供されているすべての科目を受けようと決心した。ハワイ大学では沖縄から来た玉城という学生と友人になり彼を通して幾人かの沖縄学生と知り合うようになった。そして玉城氏の家族から彼に届けられる黒砂糖や珍味等をカー氏は頂いたが、これが最初の琉球との出会いになった。中国へ行く途中、日本を経由してそこで夏を過ごそうと思った。ハワイにいた時、著名な蝋山政道博士 (政治学者で近衛文麿公の政策ブレーン) の講義を受けたことがあり、蝋山夫妻はカー氏を軽井沢の自宅に招待した。蝋山博士はある意味ではカー氏の恩人であり、博士は多くの有名な知名士を紹介してくれた。例えば近衛公や松本重治博士その他の人々で、カー氏は直ぐに自分がとても幸運な若者であることがわかった。夏の終わりに、蝋山夫妻はカー氏にここで秋、冬を過ごし、日本の一年の四季を見るように勧めた。それで二年を過ごし、東京を中心に本州、四国、九州を旅行した。カー氏が日本の美術工芸品の伝統的な発達に関心を持つまでには、さほど時間はかからなかった。そこで日本の美術家や工芸家を支えている社会生活や保護奨励についての多くの情報を収集し始めた。カー氏は (その時は) 北京に行く計画を断念していた。
 その頃の2年間、カー氏は沖縄のことについてはほとんど何も知らなかった。カー氏は早稲田大学で多数の中国人や台湾人学生と知り合った。カー氏は早稲田大学第二高等学校英語会話会で金曜日の午後英会話を教えていた。早稲田で教えていたアメリカ人の友人が台北の官立学校(台北高等商業学校)で勤務することになり、東京を離れる事になった(*1)。しかし、数カ月後、彼は病気になりアメリカ本国へ帰国しなければならなくなった。そこでその友人はカー氏に台北での彼の残務期間を引き継ぐよう頼んだ。それで、1937年に日中戦争が勃発した丁度その時、台北へ行き、3年間過ごしたが、その間いつでも日本本土へ帰ることが出来た。
 台湾で、沖縄の人達と知り合いになり、琉球に関心を持ち始めた。カー氏は教え子の中に、川平清(朝清) (戦後の初代沖縄放送協会長) のような若い有能な人物がいたことを誇りに思っていた。彼等は休暇に那覇へ帰省し、台湾へ戻る時、面白い葉書や写真をカー氏に持ってきた。2度程、那覇経由で鹿児島への旅行の申請をしたが、中国での戦争と日本の国家主義の台頭により、外国人旅行者はスパイと見做されて、沖縄への訪問は許されなかった。台北での教師 (英語) としての期間中、琉球史、交易史や人類学に特に関心を寄せていた。著名な金関丈夫博士(*2)や小葉田惇教授(両氏共当時台北帝国大学教授)とも知り合いになった。
 その頃には、カー氏は日本の美術工芸品に影響を及ぼした社会状況やその伝統についての論文 (英文) をほぼ書き終えていた。カー氏は日本語を少し話せたが、書いたり、読んだりするのは不得意だった。
 ジョ−ジ・サンソム(英国の日本文化研究者1883-1965)がコロンビア大学で教えることになった時、カー氏は大学院での研究を進めるため、コロンビア大学へ行く決心をした。(サンソム卿はカー氏が東京に住んでいる頃、カー氏を歓待してくれた人である。)
 帰米前に朝鮮経由でやっと北京へ行き、1940年の夏、友人の中国人宅で過ごした。それは大きな収穫だった。
 コロンビア大学で日本語や中国語と一緒に出来るだけ多くの歴史の授業を受けた。1941年の夏、ノ−スカロライナの山中にあるカー氏の別荘で、友人のポ−ル・ブル−ムを招待して、日本語の勉強に専念した。そしてロサンゼルスから若い日本人学生にその支援のため来てもらった。カー氏達は18才のコロンビア大学の学生にも参加するよう声をかけた。その男はドナルド・キ−ン (後の日本文学研究者1922-)で、既に中国語を受講していたが、日本語の勉強を望んでいた学生であった。遠いノ−スカロライナの別荘で、キ−ンは初めて日本語を勉強することになった。真珠湾攻撃の後、カー氏はまもなくコロンビア大学の大学院を卒業して、ワシントンへ行き、アメリカ合衆国陸軍省の民間人の台湾専門家になった。その間、カー氏は台湾に3年住んで、日本人の官吏や台湾人とも親しくなった。
 ニミッツ提督は(米国が)台湾を占領して、東南アジアや南方諸島で行動している日本軍を分断することを提案したが、台湾を迂回して、代わりに沖縄を占領することが決定された。カー氏は重慶のアメリカ大使館付き海軍武官として中国へ派遣された。1945年9月初め、日本は横浜で降伏調印した。10月に台湾の正式な返還調停に出席するため、カー氏はアメリカ陸軍顧問団と一緒に台湾へやってきた。その台北で以前親しかった日本人と台湾人の旧交を温めた。3ヶ月間、カー氏が海軍の代表者だった。それから海軍を離れたが、アメリカの外交部に加わり、アメリカ大使館を再開するため副領事として、台湾へ戻るようにいわれた。中国共産党に対抗して台湾人が1947年3月19日に立ち上がるまでの間、カー氏は (台湾へ) 残った。この頃は日本人にとって住居を捨て、日本や沖縄へ帰らなければならない大変な混乱と難儀な時期であった。カー氏は戦争で荒廃した沖縄へ沖縄人を送還する特別な問題に深く関っていることに気付いた。とりわけ、沖縄県人会とともに、その中にいた川平朝申氏(川平朝清氏の実兄)や南風原博士(*3)等と一諸に働いた。当時の悲しい沖縄問題のメモを将来のためにタイプして、琉大へ送ろうと思った。
 1946年1月、台湾からワシントンへの帰途、沖縄に1週間泊まったことがある。これがカー氏が最初に見た沖縄である。
 1947年4月、カー氏は外交部を辞め、日本や台湾に関する膨大なコレクションをもってアメリカへ帰ってきた (*4)。このコレクションは台北の製紙工場から回収したものや日本人の友人が余儀なく台湾を離れる時にその友人から購入したものである。(これらの多数のものが後にワシントン大学の極東研究所によって買い上げられ、そして台湾関係のおよそ2000冊がカリフォルニア大学の東アジア図書館に現在所蔵されている。)
 ワシントン大学で2年間、スタンフォ−ド大学史学科で1年間講義し、それからスタンフォ−ド大学のフ−バ−研究所へ移った。(カリフォルニア大学バ−クレイ校の客員講師として1953年から1954年まで「沖縄史」を講義した。これがアメリカで提供された最初の「沖縄史」講義であるとカー氏は確信している。
 1951年に、フ−バ−研究所の所長 (HaroldFisher)が「調査研究のためのテーマ」を職員に提示するようカー氏に依頼した。カー氏はアメリカ合衆国と深く関わっている地域で、台湾や沖縄に関して18項目を取り上げた。1952年1月、Pacific Science Board of the National Research Council(ワシントン D.C.にある合衆国調査評議会・太平洋学術局)でハロルド・ク−リッジ博士はマ−ドック博士とカー氏を招待して、米国民政府の琉球民政官ジェ−ムス・ルイス准将とともに会議に加わるよう伝えた。1週間の長い会議で、ルイス准将は、マ−ドック博士とカー氏が沖縄の歴史、琉球人と日本本土との関係を話しているのを聞いて、それが琉球をアメリカの管理のもとにおく新しい平和条約(対日平和条約)に沖縄人が異議を唱えた場合の解決に光明(糸口)を与えるように思われて、ルイス准将は、二人の会話に関心を持ち始めた。彼はカー氏に沖縄歴史の概説を準備する意志があるかどうかを尋ねた。カー氏は3つの条件を受託の条件として同意した。1つはカー氏が自由に宮古、八重山へ旅行できること、2つは資料を参照するため日本の図書館や個人の文庫を調査出来ること、3つは教育担当の米国民政府職員に如何なる場合でも従属しないことであった。カー氏の条件は受託され、カー氏はその年に何度も沖縄や日本本土へ帰ってきた。(この調査報告は前述のように「Ryukyu:Kingdom and Province before 1945」)。
 カー氏のこの時の調査報告から、加筆してその後に「沖縄:島人たちの歴史」(1958年刊行)、そして続いて、書誌的調査として琉球大学から「琉球文献目録」が出版された。
 1952年、カー氏は琉球を訪問中に、どこでも親切にされて、深く感銘を受け、感動した。沖縄戦で破壊と恐怖に落とし入れ、外国の軍事占領で重圧をかけてきたアメリカ人に対し琉球の住民は憎しみを持つのが普通であるにも拘らず、カー氏はどこでも友情と歓迎を受けた。再建に向けて意欲的に取り組んでいる沖縄県民の姿に驚き、その事がカー氏には沖縄の住民に対する限り無い称賛の思いとして残っている。カー氏はその感謝のしるしとして微力ではあるが、出来る限りの援助をしてきたと述べている。その事は、当時の琉球大学や次世代の若者に対する支援の気持も含んでいる。(不十分かも知れないが)、琉球の事情に関わった物語の記録として残しておきたく筆を執ったとカー氏は述べている。

 以上がカー氏の書簡(英文)の概略であるが、訳語等の字句については瀬名波教授よりご教示頂いた。

○カー氏への感謝状
 瀬名波教授は、カー氏のことについて、沖縄の歴史を総合的に研究し、それを英文で全世界に紹介した人で、これまでのカー氏の功績に対し、琉大の東江康治学長、太田昌秀法文学部長、瀬名波館長等 (当時) は、沖縄タイムス社にカー氏への「沖縄タイムス賞」の贈呈を働きかけ、同社から「沖縄タイムス賞」の感謝状が贈呈されたと述べている。

○カー氏と白花デイゴ
 カー氏に関する美談であるが、琉大を訪問中、図書館の隣にある「首里の杜」に外国人留学生のため、各国の樹木を植えたほうが良いとカー氏は瀬名波館長に提言されたようである。その意味もあってか、カー氏はハワイに帰郷後、琉大図書館の周辺に植えて欲しいと、沖縄から留学していた新崎康博氏に、ハワイ産の「白花デイゴ」の種子を託したようである。新崎氏が沖縄に帰られた時に、それを新崎氏の義兄にあたる新井裕丈氏 (初代図書館専門員) が預ってきて、瀬名波館長に渡した。瀬名波館長は農学部林学科の幸喜善福助教授(当時森林工学)にその栽培を頼んだ。幸喜助教授は専門分野が違うということで、附属演習林の新里孝和教官 (現附属演習林助教授) に依頼し、新里教官は安里昌弘技官と共にこれを発芽させ、育成した。安里技官によれば、数粒の種子は一部は、苗畑と呼ばれていた現在の「都市林研究園」(農学部附属演習林施設)で順調に生育しているとの事だった。その後、安里技官に実物の樹木も見せて頂いたが、花は既に散っていた。この珍しい「白花デイゴ」は、4月中旬から5月中旬頃まで咲いているが、県内で見られる深紅の花のデイゴ(県花)に比べて、余り目立たないようである。挿木で増殖が可能という事なので、いつの日にか図書館の周辺にこの白い花の咲くデイゴが咲き誇るようになれば、カー氏の気持に報いることになるのだが。
 白花デイゴのある「都市林研究園」は医学部体育館の下側に位置している。そこでは四季折々の花々が咲き誇っているようで、途中に高さ12メートルの滝もあり、散策が楽しめる場所である(平成5年10月「琉球大学学報」第304号参照)。

白花デイゴの樹木 都市林研究園にある滝

 琉球大学の草創期から琉球大学の教育研究の発展に尽力したカー氏は、終生沖縄を愛し、沖縄・八重山などの研究に情熱を寄せた外国人である。米国において、沖縄からの留学生の世話等もして、多数の人々から慕われていたが、昭和62年8月28日に浙去した。同年9月20日に那覇市の八汐荘で、生前のカー氏と親交のあった40人余の学者達が集いカー氏を偲んだ。

 1.宮城悦二郎氏 (前沖縄県公文書館長) からカー氏が台湾の高等商業高校に務めていた事をご教示頂いた。又、台北帝国大学卒業後、金関教授 (人類学、考古学) 等のもとで、助手を務めたこともある大鶴正満氏から、昭和10年の「台湾総督府及所属官署職員録」を見せて頂き、その中に「台北高等商業学校」の名前が記載されていて、カー氏の前任者と思われる雇教師のゼー・ゼー・コーイの名があった。

 2.大鶴教授からご教示頂いた金関丈夫著の「琉球民俗誌」に、「カーの思い出」という項目があり、カー氏は戦争中、アメリカ随一の台湾通で、台湾爆撃の作戦の柩機にいて、自ら爆撃機に乗っていたという。瀬名波教授によれば、カー氏は台湾で飛行機事故で落ちたことがあったが、現地の住民に救われ、九死に一生を得たという。金関教授はカー氏の印象をカー氏が日本文化史に関心があり、アメリカ人のわりには貧相だったが、物を見る眼は普通の日本人より観賞力が優れていたと述べている。

 3.「琉球民俗誌」によると医学博士南風原朝保氏は「質問本草」(琉球諸島等に産する草木を中国の医者・本草家からその名称・薬効などをたずねたもので1837年に刊行)を南風原博士が東京の書店から大金を投じて入手したが、本学が必要としていることを聞いてそれを即座に贈ったという。南風原博士の死後、御遺族から昭和59年3月、本学保健学部図書室に「台湾医学雑誌」等800点の蔵書が寄贈された。

 4.「琉球民俗誌」によると終戦後、日本人が台湾からの引き揚げの際に、持ち帰ることを許されなかった先祖代々の重宝を台湾で手離さざるを得なかったため、その品々が台湾の市場に安価で出回っていたと記されている。アメリカ副領事だったカー氏は金関教授、南風原博士、台湾人等と共に、それらを収集して、月1回各家で自慢会をやったようである。1949年台湾を引揚げることになった金関教授はたくさんの書籍と陶器のコレクションの処分に困り、カー氏のかねてからの希望を容れて、陶器はカー氏に譲り渡すことにした。数日かけての荷造の後、領事館の職員がきて、トラックに乗せて、それを一度で飛行機で、本国へ運んだ。カー氏は方々でこの金関教授のコレクションの展示会を開いたようである。そのコレクションはカリフォルニア大学が買取り、カー氏の教授への支払は完納した。

「国連寄託図書館」誘致の実現

 1985年7月24日に「国連寄託図書館」誘致のため、瀬名波栄喜図書館長が国連本部を訪問した。国連寄託図書館は原則として一国二館以内ということであったが、当時、日本はそれを上回って設置されており、沖縄での誘致が大変困難だったようである。渡米前に東京の国連広報センタ−を訪問したが、担当者から設置は不可能だと云われ、失意の内に同広報センタ−を退館しようとした時、一女性に呼び止められ、励まされたそうである。その女性が元医学部部長茨木教授の実妹坊下隆子事務官であった。国連で、瀬名波館長は小張本学元附属病院長の旧友にあたる黒田大使に、小張教授の紹介状を携さえて面会した。黒田大使のご尽力と外務省国連局関係者の協力で異例の早さで1986年4月7日に設置許可された。瀬名波館長の並々成らぬ折衝・奔走により、本学に国連寄託図書館が設置された。現在、UN資料として継続的に送付され、国際資料室に配架されている。(「びぶりお」26巻3号参照)

沖縄戦時中の米軍機密資料の入手

 瀬名波館長が国連からの帰りに、日本関係資料があるということで米国のメリ−ランド大学を訪問して、入手したのが、1945年の沖縄戦を記載した米国陸軍第十軍のG-2(情報参謀部)作成のIntelligence Monographという標題の米軍の情報資料である。
 日本軍の陣地や防衛施設、首里城下にあった牛島第32軍司令官の指令室や沖縄本島、先島諸島等沖縄全島の軍事記録、太田実海軍少将の司令部のあった地下壕地図、日本軍捕虜の尋問・供述、空中写真に標記された病院施設、学校等、攻撃の前に周到な計画をしていたことが伺える。戦時中の沖縄の情勢を知る貴重な資料である。本学の所蔵枚数は約800余頁である。
 尚、この資料は沖縄県平和推進課が既に入手しており、同課の他に沖縄県公文書館がその複製を保存している。宮城悦二郎公文書館館長 (当時) によれば、これをマイクロフイルム化して、利用の便宜を図っているとの事である。(1999年3月11日付け「沖縄タイムス」収載記事より参照)

Intelligence Monograph
Intelligence Monograph

つづく

(とよひら ともみ:図書館専門員)