琉球大学附属図書館のあゆみ −5−

豊平 朝美
1980年代

 本学も創立以来30年が経過し、大学の規模は年々増大していった。首里キャンパスは基準面積にも満たず著しく狭隘であった。昭和40年5月27日に学長の諮問機関として設置された 「施設整備拡充研究委員会」 は、新校地の必要面積を130万〜140万とし(実際の用地取得面積は上原団地を除いて約113万)、候補地として、最終的には宜野湾市、西原村、中城村の接点地が最適地として、同年11月4日に学長に答申した。
 その後、幾多の経過を経て、昭和50年10月に文部省で開催された琉球大学移転整備計画協議会において 「千原団地の施設配置計画は概ね大学案どおりとする」 ことが決定された。昭和50年5月、首里キャンパスより現千原キャンパス移転の第1陣として農学部附属農場が移転し、その後、各部局が次々と移転した(「琉球大学40年誌」 参照)。
 移転を直前に控え、その準備最中の昭和56年に、琉球大学が当番館になり、第28回国立大学図書館協議会総会が首里の都ホテルで6月23日、24日の2日間にわたり開催された。昭和56年7月13日より新館への移転が進められ、9月より開館した。翌年の昭和57年10月より、閲覧業務が電算化された。首里キャンパスのマニュアル貸出に終わりを告げ、利用者への新たなサービスの幕開けとなった。
 その後、昭和59年3月には上原団地に医学部分館も竣工、5月に開館したが、閲覧業務の電算化は少し遅れて、昭和62年10月よりサービスを開始した。
 事務組織においては、昭和60年4月より、図書館に部課長制が敷かれ、組織の強化とサービス体制の改善・整備が一段と進められた。それと共に業務の省力化、合理化に向けて見直しを図り、今日に至っている。
 初代事務部長に九大から前田正三氏、整理課長に尾崎一雄氏が阪大から着任、閲覧課長に当館の山田勉氏が昇任し、業務の電算化を推進することになった。又、昭和60年9月に閲覧課に図書館専門員が認められ、医学部分館に配置された。昭和61年1月より東京大学文献情報センター(現学術情報センター)と接続、これまでのカード目録作成に終止符が打たれ、目録業務の省力化が飛躍的に進み、本学図書館の電算化時代の幕開けとなった。

第28回国立大学図書館協議会総会
昭和56年6月23日〜24日

横断幕の作成風景
横断幕の作成風景
 昭和56年(1981)に図書館の西原キャンパスへの移転を目前に控え、九州地区が当番地区になり、琉球大学(当時首里キャンパス)が当番館として、全国規模の会議が初めて開催された。会場は首里の都ホテルで全国92国立大学から、図書館長及び事務部部課長計220名、文部省から田保橋課長他2名が出席した。
 琉球大学が国立大学図書館協議会に参加するようになったのは、昭和32年(1957年)に、「全国国立大学図書館長会議」(事務局は東京大学附属図書館)に当館の外間政章館長(当時)が加入申請したことに始まる。米国施政権下の特殊事情があり、かつ創立間もない本学にとって、日本の国立大学の動向を知ることは図書館の改善・発展のために不可欠だったのである。実際の参加は昭和34年(1959)10月27日の一橋大学で開催された第6回全国国立大学図書館長会議にオブザーバーとして出席したことが始まりである。
 総会の準備にあたって、東京大学、九州大学等の支援を頂き、琉球大学でも平良事務長の指揮のもとに、館員が準備にとりかかった。東北大学(前回の開催校)で事務引き継ぎを行った崎浜受入係長を中心に綿密な準備計画が立てられ、総務係が加わり、準備が進められた。その他の大会の準備として開催直前の1ケ月前から、新城安善整理係長を中心に松原、山里両整理係員の協力で都ホテルの会場に掲げる横断幕の作成が進められた。
 大会当日の総会は議事も円滑に進められた。総会終了後、夜は懇親会が行われ、氷でかたどった守礼の門の豪華な飾り付けは参加者の目を引いた。2日目には、分科会が行われ、学術情報センタ−設置の促進、図書館維持費の増額、相互協力業務担当職員の増員等、国立大学図書館が抱える問題を討議し、午後の全体会議で午前中の分科会の報告があった。
 この時の総会で 「国立大学図書館間相互利用実施要項及び細則」 が採択され、現在、国立大学間で他大学への閲覧の際に利用されている 「共通閲覧証」(原則として院生以上が対象)による図書館間相互利用制度が昭和57年1月15日から実施された。(「びぶりお」 14巻3号参照)
 一方、「琉球大学附属図書館30周年略年表」 の作成が崎浜受入係長を中心に進められ、総会の当日に各大学の出席者に配布された。略年表には首里城跡に琉球大学の創設が決定される1948年(昭和23)から西原町の千景原キャンパス移転直前の1981年(昭和56)4月1日までの30年間の図書館の足跡が年月日順に記載されている。略年表の作成は1980年(昭和55)が30周年(1950年5月5日の開館)にあたることから、図書館の歩みを出来るだけ詳細に記録し、他日の参考に資するため企画されたようである。略年表は過去の図書館事情が一覧でき、現在では非常に貴重な資料となっている。
会場の都ホテル玄関風景 附属図書館30周年略年表
会場の都ホテル玄関風景 附属図書館30周年略年表

移転統合地における附属図書館の在り方について

 附属図書館運営委員会の意向を踏まえ、当面次の事項に沿って改善が行われるよう大学改革委員会より提言、最終答申をまとめ、昭和54年2月16日付で学長へ報告した。その基本方針について、「中央図書館制度とし、図書・雑誌を図書館長のもとに一元的に管理運営し、全学共同利用を図り、他大学図書館との相互協力が効率的かつ経済的に行われることが望ましいこととした。本学規模の図書館では、将来における分館レベルの分散保存は別として、分室等の形式による図書館資料の分散化は原則として認めない方向にすべきであるとし、医学部分館については、将来においても学生数、蔵書数の増加、敷地規模から最小限の設置にとどめるべきである。」 となっている。
 しかし、移転後間もなく、農学、工学部より新図書館に分室を設置するよう要望が出された。昭和54年4月の農学部の新キャンパス移転を皮切りに、昭和56年に図書館が移転するまで、暫定的に新キャンパスの学部内に図書室を設置したのが要因と云われ、暫定期間が過ぎて、学部図書室を引きあげる段階になると、距離的に離れた図書館では利用に不便ということで要望が出されたらしい。新図書館の基本方針はその役割として、研究図書館、学習図書館、学術情報センター、地域図書館、教養図書館及び保存図書館等の機能が十分行なえる必要があるとなっている。その他に、「中央図書館は、学内における図書館資料の収集センターとして、情報を提供し、所蔵しない資料についても文献複写を通じて利用者へサービスできる場でなくてはならない」 とし、「そのためには中央図書館における情報収集の管理運営について、電子計算機の導入等、資料の管理運営にも機械化が予想されるので、施設設計上の工夫および将来の面積増をみこした周辺敷地の確保等についても配慮が必要であろう。」 となっている。
 さらに、平良恵仁氏(当時事務長)は、沖縄研究資料センター的機能、視聴覚資料センター的機能、総合図書館的機能を新図書館に期待される役割として位置づけている。(参照文献:平良恵仁氏、崎浜文枝氏執筆論文: 「大学図書館研究」 20号所収、仲西盛秀氏執筆論文:「大学図書館研究」 28号、「図書館年報」 昭和53年度)

附属図書館の移転

 昭和56年度 「図書館年報」 によると大学の移転に伴い、附属図書館は昭和55年11月以来急ピッチで西原町千原キャンパスに建設が進められ、昭和56年6月末日に完成した。移転の準備は平良事務長の指揮のもとに、全館体制で進められ、崎浜受入係長を中心に周到な計画が立てられた。移転の実施に当って、新井裕丈氏(当時閲覧係長)を中心に作業計画が進められ、新館での開架行きと書庫行きの図書の仕分けを行ない、箱詰めをした。昭和56年3月2日から臨時用務員が採用され、箱詰めしたダンボールのテープ貼りを行い、その後、職員も3月12日から20日まで書庫整理を行った。移転作業は7月14日から始まり、運送業者と全職員が搬出班と搬入班の二手に別れて資料及び備品等の搬出・搬入・配架を行ない、8月8日に作業が完了した。新図書館での開館は昭和56年9月1日開始となった。総面積は5,440で首里の旧館の約2倍強になっている。旧館と違うところは、1階に語学実験室、視聴覚室、研究個室、書庫に電動式集密書架等が設置されたことである。さらに身体障害者の為に、図書館通用門に通じるスロープ道路を図書館外側に初めて設置した。翌年の昭和57年4月より、2階玄関入口にB.D.S.(ブックディテクションシステム: 無断図書持出防止装置)が導入され、職員、利用者双方共にこれまで長期にわたり実施してきた持物点検による心理的負担から解放された(1964年2月20日に完全開架式を実施、以来退館者の所持品点検を行っていた。)。3階にブラウジングコーナーを設けて、利用者が自由に懇談、休憩が取れるようになった。又、空調設備、エレベータも設置された。首里キャンパス時代に図書館職員全員で1階から5階まで汗だくになって資料を上げたりしていたことが今では昔のことのように思われる。

閲覧業務の電算化

 昭和57年10月より、本館において閲覧業務が電算化された。約8万冊に図書ID番号を付与、学生証、職員証に利用者IDを貼付、10月24日より電算化(10月22日稼働式典)による貸出を開始した。
 コンピューター研究委員会(委員長:宮島恵曠氏)のもとで、開架図書の書誌情報の入力、IDラベル貼付作業(業者、図書館)が実施された。新井係長は、稼働には本学の計算センター講師(当時)の鶴岡知昭氏に負うところが大きいと述べている。(附属図書館33年の思い出: 「びぶりお」 26巻3号通巻100号所収)

図書館玄関表札の制作

 昭和56年9月1日に、新図書館は西原町の千原キャンパスで開館したが、図書館を象徴する表札は安次富長昭先生によって作成された。館長(木崎甲子郎理学部教授)より玄関表札の制作依頼を受けた安次富先生は、「学而不厭」 を表札の標題として、館長に上申した。図書館の 「学而不厭」(がくじふえん)は、昭和38年(1963)1月に、京都大学教授の湯川秀樹博士が、本学に来学された折に揮毫したもので、その原本は巻軸にして現在図書館の金庫に保管されている。
  「学而不厭」 は 「論語」 の一節より引用したもので、「学び、学び、そして学ぶ。決してあきるということはない」 という意味で、安次富先生はこれを図書館にふさわしい言葉として表札に選んだそうである。安次富先生のお話では湯川秀樹博士の扁額の文字は表札用に拡大、文字と文字の間を調整しながらレイアウトした。石材は県内最上品の石である久米島仲里村島尻の輝石安山岩を使用し、コザ市(現在の沖縄市)にある沖縄大理石社長石嶺実彦氏によって研磨・彫刻された。石嶺実彦氏は手掘りの名人で琉大西口にある琉球大学の表札、医学部の献体碑、沖縄県庁の表札などの彫刻も手掛けた人である。安次富先生は琉大で使用する表札のため、石材をあらかじめ、久米島より持ち出して準備をしていたそうである。制作された碑文の除幕式は、昭和57年9月2日に執り行なわれた。(詳細は安次富長昭氏の 「学而不厭」 : 「びぶりお」 15巻5号所収及び砂川恵伸氏の扁額 「学而不厭のこと」 : 同26巻3号所収参照)
 その他、安次富先生(当時の学科主任)は美術を担当した退官教官に呼びかけて作品(絵画)を本館に寄贈して頂いたほか、教育学部美術工芸科の現役教官の作品を図書館に寄託させて頂いた。寄贈された退官教官は安次嶺金正、安谷屋正義、大城皓也、宮城健盛、山元恵一の各氏で、又、図書館に絵画を寄託された現役美術教官は安次富長昭氏の他、稲嶺成祚、大城志津子、神山泰治、西村貞雄、永津禎三の各氏である。作品は一部を除いて現在でも本館の閲覧室、玄関ホールに展示されており、館内の雰囲気造りに役立っている。尚、新館の正面玄関ホールの壁のレリーフは玉那覇正吉教官と西村貞雄教官が共同で制作したものである。(「びぶりお」 15巻5号及び17巻1号、「図書館年報」 昭和57年度及び昭和58年度参照)

「学而不厭」を揮毫する湯川秀樹博士

「学而不厭」 を揮毫する湯川秀樹博士
(「琉球大学40年誌」 より)
 注. 湯川博士は沖縄教職員会主催の 「第九次教研集会」 の記念講演の特別講師としてスミ夫人とともに来島され、昭和38年(1963)1月18日に本県学生のために琉球大学体育館で午後2時から講演を行った。県内の琉大、沖大、国際大、キリスト教短大の4大学の学生、職員の他に講演の始まる頃には近くの首里高校生も押しかけ、広い体育館も3,500余人の聴衆で一杯になり、湯川夫妻の講演は聴衆に大きな感銘を与えた。
 湯川博士は 「最近の物理学」 のテーマで話され、真理の追及は人間に役立つものでなければならないのであり、学問を間違った方向に伸ばしてはならないということや、若い研究者には夢をもって欲しいこと等を述べられた。スミ夫人は 「現代における私どものつとめ」 と題し、世界の婦人が手を取り合って、核戦争から人類を救うことの大切さを述べられた。
 翌19日も同体育館で午後2時から教研集会の記念講演を行い、湯川博士が 「科学文明の中の人間」 と題し、スミ夫人は 「婦人と世界平和」 と題して講演、4千人の教職員、一般市民、学生に深い感銘を与えた。(1963年1月19日、20日 「沖縄タイムス」、「琉球新報」 掲載記事を参照)

「志喜屋記念図書館」 の呼称と銘板設置

 昭和60年4月16日開催の 「移転完了記念祝賀行事企画委員会」 で、附属図書館の呼称について、首里キャンパス時代からの歴史的連続性を示すために、旧キャンパス同様初代学長、志喜屋孝信博士の功績を讃え 「志喜屋記念図書館」 と呼称することが答申され、昭和60年9月24日の 「評議会」 で了承された。それにより、銘板の製作に伴う指導・助言を同年10月25日に安次富長昭教授(教育学部)に依頼、銘板は昭和61年3月15日に正面入口に取り付けられた。(「図書館概要」 1986参照)

藤林益三元最高裁判所長官の来学と図書館の扁額 「真理令爾得自由」

 昭和55年の7月5日に、元最高裁判所長官で、退官後日本法律家協会会長の職にあった藤林益三氏が、日本法律協会の九州支部の沖縄分会の招きで、沖縄での講演のため初めて来沖した。「日本法律家協会」 は財団法人で裁判官、検察官、それから弁護士、公証人、学者等で組織されており、その構成員を対象に、藤林氏は 「裁判官と良心」 という演題で沖縄の那覇地方裁判所の会議室で1時間ばかり講演された。その講演を聴講した。本学の教養部(法学)の垣花豊順教授は、「裁判官と良心」 の講演で裁判官のものの考え方によって人の一生が左右されることを知った。大学の教官の講義によって学生の一生が左右されることがありうるため、垣花教授は、進路に誤りのない講義を学生にしたいと念じて、藤林氏に琉球大学の進むべき道・守るべき基本的姿勢についてご教示して下さるよう記念講演をお願いしたそうである。藤林氏には本学の創立30周年と新キャンパス移転記念ということで、そのついでに一週間程度の集中講義をお願いしたようである。藤林氏は翌年の昭和56年に再び来沖し、5月11日から16日までの6日間、教養部の学生を対象に本学で講義された。この教養部での16時間に及ぶ集中講義は全部録音されて、学生有志18人が手分けして、文章化しその後、垣花教授が藤林氏へ送付された。藤林氏はこれに手を加えられ、送り返したところ、垣花教授はご自分で全部清書し、これを書物にして欲しいといって、再び藤林氏のもとに届けた。「藤林益三著作集3: 法律家の知恵」 はこれをまとめたものである。
 集中講義期間中に、藤林氏は垣花教授に色紙等を求められ、思いつくままに 「真理は汝らに自由を得さすべし」 という聖句を書いた。帰郷後、藤林氏のもとに垣花教授はこの句を横額に書いてもらいたいと半切の他に2メートル余りの大きな紙が届けられた。半切りは会議室に、大きなものは図書館に掲げるということであったそうである。藤林氏は仮名入りの14文字は、横書きには無理と思っていたところ、不思議なことに、その頃、関西に住む友人から、神戸女学院大学の会議室に、「真理令爾得自由」 という厳谷一六の書があることを知らせてきた。一六は明治の書家で藤林氏の岳父 「厳谷小波」 の父で、クリスチャンではなかったので多分(人に)たのまれてこのヨハネ八の三二の聖句を漢語で書いたものであろうと藤林氏は 「同書(法律家の知恵)」 で述べている。
 漢字7文字の 「真理令爾得自由」 は、本館カウンターの上部に掲示されている。14文字の 「真理は汝らに自由を得さすべし」 は事務局教務課の管理下にある共通教育1号館(元教養学部)教室の入口内に現在掲げられている。

図書館カウンター
図書館カウンター
共通教育1号館
共通教育1号館

医学部分館の新設

 医学部分館が本学医学部にも設置されることになり、設置計画が検討された。
 昭和56年4月建設設備専門委員会(委員長: 小張一峰)が設けられ、昭和58年8月、同第4回委員会において、分館は蔵書数8万冊、建物面積は1,400で2階建とすることが決められた。
 昭和56年、琉球大学医学部基本設計計画において、分館は開架式閲覧を基本とし、臨床講堂及び保健学科棟と隣接する建物とすることが示された。昭和57年10月、建設設備委員会(第13回)で、分館建設の実施設計のためのワーキング・グループ(委員長・金城清勝:後の初代医学部分館長)が設置された。建設設備委員会(第14回)は、分館の基本構想を蔵書は10万冊を目標とし、これを超えた場合は増築する。将来構想の中に熱帯医学情報センターも志向する等となっていた。昭和58年9月に着工、翌年の昭和59年3月に、鉄筋コンクリート2階建て(1,404)、収容冊数7万6,000冊の医学部分館が竣工した。建物新営に伴なう設備品についての計画は仲西盛秀氏によって作成された。

医学部分館の移転

 昭和58年4月、医学部の基礎医学講座及び保健学科が新キャンパスへ先に移転することになり、新キャンパス基礎講義棟の1室に暫定図書室を設け、図書、新刊雑誌の一部を移し、講義に備えた。臨床講座関係の図書・雑誌は、昭和59年4月、附属病院の移転まで与儀キャンパスの図書室で利用された。昭和59年5月に医学部分館は開館された。その間、講義棟の教室の一部に図書室を設けていたため、資料等の配置、開館時間の制限等不便をきたしていたが、分館が新築されて、漸く利用者へのサービス機能を図ることができるようになった。
 移転準備は仲西盛秀氏(分館整理係長)、野原敏弘氏(分館閲覧係長)を中心に進められ、同年6月、与儀キャンパス図書室から図書、備品の移転作業が行なわれ、7月に完了した。その後、移転図書の配架作業が行なわれ、9月の授業開始までに書架整頓を終了した。
 新館の主要設備としては、全館空調設備、集密書庫、エレベーター、B.D.S.(図書無断持出防止装置)の他に、特に視聴覚機器など編集機能を備えたビデオ機器等が整備された。(「琉球大学40年誌」 参照)

医学部分館のレリーフ

医学部分館のレリーフ
医学部分館のレリーフ
 分館の2階へ上がる階段正面の壁に作品名が 「白い波」 という巨大なレリーフがあり美しい静かな雰囲気をかもし出している。
 分館設置の際に制作したもので壁画造形作家の西田明未(本名:松葉明美)の作品である。作者は欧州各国で造形美術を研究、帰国後、創作活動を次々と続け、「積み重ねの分化」 の作品では、わが国壁画造形美術部門としては初めて総理大臣賞を受賞した。作者の西田明未の 「白い波」 の趣意によれば、「(この絵は)コバルト色の空にエメラルドグリーンの海が輝く、カラッと晴れわたった沖縄の海岸に打ち寄せるさわやかな白波の光を南国の詩情豊に美しくデザイン造形しており、それは朝昼夕を問わず安らぎと深いロマンを人の心に感じさせる情景であり、透明感に満ちた太陽の輝きや白い砂、そして海の音が聞こえて来るが如くに造形しています。材料は美麗なイタリアングラスの外、特殊鉱物材を主材に、要所には貴金を使用、効果的に造形制作しています。」 となっている。

絵画の寄贈とヒポクラテスの絵画

 医学部分館では卒業記念に、医学科第4期生から郷土出身の画家名渡山愛擴作 「鳳凰戯牡丹」、第11期生からみやら信之作の 「座る女」 を、また、平山清武教授(当時の医学部長)から絵画が当館へ寄贈された(医学部長室に掲示してあったもので、第9期生が寄贈した高橋益之作の 「婦人像」 という絵画)。本館同様館内の雰囲気づくりに一役かっている。
  「ヒポクラテス」 の絵画は、大鶴正満教授(初代医学部長で現在名誉教授)が前任の新潟大学時代に所蔵されていたものであり、「Great Moments in Medicine」 という洋図書と併せて、医学部分館に寄贈されたものである。図書は45篇の内容から構成されており、各篇に Robert A.Thomの絵画と George A.Benderの説明文がある。その中に 「ヒポクラテス」 の絵画の説明文もある。
 絵画の説明文(英文)は 「ヒポクラテス : 医学が科学となる」 という見出しで始まって、その見出しの内容は 「紀元前500年から紀元後500年の1000年の間に、古代世界で医術はギリシャで最も高度に達した。この創造期はヒポクラテスに 「医学の父」 として象徴されているように、常にその名前は美、価値、医学の尊厳を表わすようになった。ヒポクラテスのやさしさと気遣いは 「人間愛の存在するところに愛のある癒しの術がある」 という名言に表現されている。紀元前5世紀後半に、ヒポクラテスが幼い患者に触診して、心配している母親をしばしばなだめているように、この偉大な医者であり、科学者であり、教師である顔にこの本質が写し出されている。ヒポクラテスは今日でも医学界ではなお尊敬されている」 となっている。
 さらに本文に 「ヒポクラテス」 は紀元前460年頃、エーゲ海の 「コス」 という小さい島で、神官医師の家に生まれ、ラリッサで紀元前375年頃死去したと云われている。同時代にソクラテス等がおり、「ヒポクラテス」 の手で医学が技術、科学、職業になったと記されている。ヒポクラテスについては医者の倫理について、多くの名言があり、又、「ヒポクラテスの誓い」 は医師の倫理として重要なことを述べており、今日でも通用するものがあると云われている。患者の医療上の秘密を守ることや、患者の私生活に医師という特権を利用して立ち入ることを戒めており、医術は、〈患者の福祉のため〉であり、〈あらゆる故意の不正と加害を避ける〉というところに 「ヒポクラテスの誓い」 の本質がある。(「医科学大事典」 参照)。大鶴教授はそういう意味もあって、この絵を寄贈されたようである。「ヒポクラテス」 の絵画はまさに医学図書館にふさわしいものと云えよう。この絵を寄贈された大鶴正満氏は、琉球大学医学部創設準備室長として、本学の医学部創設に深く関った方である。

Robert A. Thom 名渡山愛擴作 「鳳凰戯牡丹」
Robert A. Thom(ヒポクラテスによる患者の診察) 名渡山愛擴作 「鳳凰戯牡丹」
(医学第4期卒業生寄贈)

つづく

(とよひら ともみ : 図書館専門員)