琉球大学附属図書館のあゆみ
〜 シリーズ 4 〜


豊 平 朝 美 



充実期(1970年代)
米国民政府庁舎玄関(現在の上山中学校跡)

米国民政府庁舎全景(同上)

沖縄群島政府(現在の天妃小学校)

 前号でも述べた通り、昭和47年5月15日の琉球大学の国立移管に伴い、文部省より昭和47年度から格差是正費が附属図書館に配分され、昭和51年度まで5ケ年間継続した。また、米国統治下の戦後資料(米国民政府*資料いわゆるUSCAR資料)の収集のために昭和46年4月に琉球大学戦後資料収集委員会が設置され、同委員会と米国民政府首脳との間で事務折衝を継続して戦後資料の入手が実現した。資料の収集は同委員会と図書館側が協力し、実際の資料の複写は図書館側が担当した。その事業に対し、文部省から昭和47年度から昭和49年度の3ケ年間にわたり、特別援助を受けたことにより、60万枚に及ぶ資料を複製することができた。また昭和52年度より新たに沖縄関係文献資料保存事業費がほぼ毎年本省より配分を受け、沖縄関係資料収集の整備、充実が図られてきた。

 一方、図書館業務の機械化に向けて、外部より講師を招いて研修会を開催したり、館内にコンピュータ研究会を設置して、本格的に図書館業務電算化の検討をはじめた。「琉大風土記」によれば、狭あい化の著しい首里キャンパスではこれ以上の発展は望めないことから、国立移管を目前に新キャンパスへの移転統合が急務となった。1965年5月27日、学部学科及び附属施設の整備充実、医学部その他研究機関等の設置計画に対応するために必要な大学用地の確保に関する学長の諮問機関として、施設拡充研究委員会が設置され、同委員会は大学用地候補地として三地域を選定、数回の調査、討議の結果、1965年11月4日に「宜野湾、中城村、西原町の接点地域」(現在の千原キャンパス)を決定した。図書館も新キャンパスでの新図書館建設に向けて建築場所、規模等具体的取組みをはじめたことは前号で述べた通りである。
 米国民政府(沖縄統治のための米国政府の出先機関)正式名称は琉球列島米国民政府で1950年12月15日にそれまでの琉球列島米国軍政府を廃して、沖縄の長期的統治のため新たに設立されたもの。1949年7月25日、沖縄民政府が佐敷村新里(知念地区)から那覇市の上之山国民学校(現上山中学校)に移転、1949年11月21日に沖縄民政府が天妃国民学校(現在の天妃小学校跡)に移転すると、同年11月12月1日に米軍政府が玉城村親慶原から上之山校に移転してきた。米国民政府は当初(1950年代)は上之山校跡にあったが、1953年(昭和28)4月28日に琉球政府行政ビル(現在の沖縄県庁舎)が落成すると同時に同ビルに入居、沖縄の日本本土復帰前の1968年(昭和43)1月8日、浦添市小湾に移転、復帰の前日の1972年(昭和47)年5月14日に消滅した(照屋栄一著「沖縄行政府機構変遷史料より引用)。

沖縄関係研究資料のマイクロ化
 本学図書館の沖縄関係収集に深く関わってきた主な教官の一人に我部政男氏(現山梨学院大学法学部教授)がいる。我部氏は近代日本史、沖縄関係学を専門に昭和49年以降、国立公文書館を中心に国立国会図書館憲政資料室、宮内庁書陵部、東京大学法学部明治新聞雑誌文庫、外務省外交史料館、防衛庁戦後史史料室、総理府統計局等を訪ね、明治期の沖縄に関する公文書など膨大な資料の調査・収集を行ってきた。収集対象資料は業者にマイクロ化を委託し、本学図書館に受入れた。(我部政男編著「日本近代資料・近代沖縄関係学資料調査・収集マイクロフイルム目録」参照)

明治新聞雑誌文庫所蔵資料の寄贈
 昭和57年1月21日、東京大学の明治新聞雑誌文庫所蔵資料の管理替譲渡をうけた。内容は現在本館の1階新聞室、書庫に保管されている戦前の法規分類大全(慶応3年より明治23年に至る中央政府の法令等公文書を集大成した資料集)、官報(明治19年より同45年までと昭和3年より19年までの分を製本したもの)、東京日日新聞(後の毎日新聞、大正2年より昭和37年までの分で、昭和18年以降は毎日新聞と改題)、東京朝日新聞(昭和5年より26年までの分、何れも製本済のもの)等である。
 北根氏は「他大学より是非譲って欲しいという要請があったが、先の大戦であらゆる資料を消失した沖縄に贈りたいと前々から考えていたが、(琉大に譲渡したのは)琉大の我部政男教授、比屋根照夫教授の資料収集に対する情熱と熱意を目のあたりに見て、感動したからだ」とのべている。(「図書館年報」(昭和56年度)より引用)
 我部氏は、東京大学法学部明治新聞雑誌文庫の北根豊氏について「北根氏は東京大学への働きかけでこれら資料を本学へ送ってくれた恩人である」と述べている。

沖縄関係研究資料収集
(昭和50年度)
 沖縄研究資料の複写収集は年次的に実施していくため、「沖縄研究資料複写計画表」を作成し、他の図書館の蔵書目録等で調査して年次的に進められた。当時参考調査係であった仲西盛秀氏によって、昭和50年度の図書館年報に収集内容を詳細に報告されているのでその概略だけ述べたい。
 仲西盛秀氏によると昭和50年度(1975)に収集したものは730冊5,761,500円で主なものは下記のものであり、特に文献複写の所在調査、複写依頼の折衝等は大部分は我部政男短大部教授に負い、我部氏の東京での研修中の合間に献身的に協力したとのことである。その他の外部の協力者についての詳細は「びぶりお」9巻2号も参照されたい。

  1. 防衛庁戦史資料室所蔵資料
     防衛庁の戦史資料室に収蔵されている沖縄戦に関する300点の資料のコピーである。内容は沖縄戦で沖縄配属の各部隊が大本営(戦前天皇に直属する軍の最高の統帥部)に報告した資料つづりや沖縄戦の後、米軍に収容され、その後日本政府に返還された「返還文書」がある。
  2. 山下久四郎文庫所蔵資料
     「山下久四郎文庫」は、大正・昭和初期の糖業関係の資料で、原資料は所有者の山下氏から沖縄県立図書館に寄贈され、「山下文庫」として同館に保存されている。当館は所蔵機関の沖縄県立図書館の協力でその中の一部を複製している。
  3. 外務省外交史料館所蔵資料
     主として明治5〜7年外務省管轄時代のものと明治期の琉球の帰属をめぐる日清外交交渉関係とに大別できる。
  4. 東京教育大学附属図書館所蔵資料
     沖縄の古謡「おもろさうし」関係で「沖縄祭歌(全)」及び「蔡氏家譜」など約20点の資料である。
  5. 笹森儀助文書
     笹森儀助(1845−1915)。明治中期の探検家、島嶼研究家。明治26年6月、49才で琉球探検の旅に出て、その著書「南島探検」は北は奄美大島から南は八重山与那国までの見聞録をまとめたもの。「大島郡雑記」他9点は、笹森儀助文書として青森県立図書館に所蔵されているものから沖縄に関するものを抜き出して複写した。笹森儀助関係の資料は日本常民文化研究所、青森県立図書館、流通経済大学図書館、東京水産大学図書館等に分けられ保管されている。
  6. 日本常民文化研究所所蔵資料(祭魚堂文庫)
     「八重山取調書」他10点がある。実業家の渋沢敬三(雅号祭魚堂)(1896−1963)は民族学者、生物学者としても知られ、私財を投じて日本常民文化研究所を主宰したほか、多くの研究者の助成に努めた。


(昭和51年度)
 昭和51年度の複写収集は前年に引き続き、沖縄県立図書館所蔵「山下久四郎文庫」の奄美大島関係文書、東京大学法学部所蔵「琉球評定所記録(琉球王国時代の行政文書)」、外務省外交史料館所蔵「琉球藩諸条約他」、早稲田大学所蔵「大隈文書」等があり、その他の機関として国立国会図書館、国立公文書館、内閣文庫がある。沖縄の戦後社会事情を知る上で需要な ワトキンズ*文書(James T. Watkins:Okinawa Papers Deposited)があり、その購入においては本学比嘉幹郎教授の協力があった。
 *ワトキンズは沖縄戦直後の海軍軍政府政治将校(1945.6.25−'46.6.31)。海軍軍政府副司令官チャールズ・I・ムーレー大佐のもとで、戦後最初の住民行政組織で米軍諮問機関であった沖縄諮詢会の設立・運営に尽くす。ワトキンズ文書は当時の米軍沖縄統治資料。(「びぶりお」10巻1号、「図書館年報」(昭和51年度)参照)

(昭和52年度)
 沖縄関係文献保存事業費として予算がつき、本館で作成された「沖縄研究資料複写収集3年計画」にもとづき他機関の所蔵する沖縄関係研究資料を収集した。その内訳は以下の通りである。県外機関からは、鹿児島県立図書館所蔵の「奄美群島の地誌、民俗、歴史等に関する資料等約80点」、鹿児島大学所蔵「琉球渡海人数賦他21点」、九州大学附属図書館所蔵「琉球国使節来朝図他5点」国立国会図書館所蔵「明治31年4月−大正7年5月までの琉球新報等県内新聞紙他29点」東京大学附属図書館所蔵「新井白石著琉球国事略7点」宮内庁書陵部所蔵「琉球人来使記他3点」等、県内機関からは、琉球政府立沖縄資料編集所「復帰協-復帰運動関係資料:総目録10点」及び他2機関の資料と個人所蔵資料がある。(「びぶりお」11巻1号、「図書館年報」(昭和52年度)参照)

戦後資料収集調査委員会
 山田勉氏の「戦後資料収集調査委員会活動概要報告によると下記の通りである。
 1967年12月5日、佐藤首相が国会の所信表明演説の中で3年以内に沖縄返還の時期について日米両国間で合意に達するよう努力することが強調された。これを契機に琉球大学内に「米国の琉球統治」に関する資料を収集しなければならないという気運が起こってきた。1969年11月17日に訪米した佐藤首相とニクソン大統領との日米首脳会談で沖縄の日本本土への復帰が1972年と共同声明が発表され、「米国の沖縄統治資料」の調査収集を具体的に進めなければならないと言う声が学内からあがった。1970年6月20日に琉球列島高等弁務官ジェームス・B・ランパート中将と本学池原貞雄学長、宮里政玄法政学科教授との懇談の結果、米国民政府に統治資料を提供する意志があり、同年7月8日付けで池原学長よりランパート高等弁務官あて公式に資料提供の要請を行なった。フィアリー民政官、カーナー行政部長と折衝を行なうと同時に全学的立場で責任ある委員会を設置して強力な折衝をすべきであるとの声があり、1971年4月28日に「琉球大学戦後資料収集調査委員会」が設置された。5月13日に第1回の委員会を行い、委員長に宮里政玄教授を選出して活動を開始した。委員は宮里氏の他、久場、山城、島袋、加納、大屋、宮城、野原、我部、比屋根、保健学科の桜井(後に赤松氏に交代)各氏及び、図書館の新井(後に山田に交代)氏であった。米国民政府との折衝は当初の合意にも拘らず難行した。機密文書(国防、軍事、外交関係)はできないとか米国国立公文書館の許可がないとできないとかあって、最終的に琉球政府行政主席名でフィアリー民政官に働きかけた結果、琉球大学が入手希望、または複写希望の資料を民政府に提出し、それにもとづいて米国国立公文書館の許可を得ることになった。複写資料は秘密文書を除いて、委員及び教官の選択した資料をゼロックスコピーした。民政府所管の文書は3,780万枚と推定され、その中から、機密文書を除き琉球政府文書を含む60万枚を複写した。内容は昭和47年度は民政府資料、復帰準備委員会資料、裁判所記録、昭和48年度は米国民政府裁判所記録、全軍労資料、個人所蔵資料、米・琉政府往復文書その他、昭和49年は米・琉政府往復文書、県議会図書室資料、個人所蔵資料であった。米国民政府琉球政府往復文書は沖縄県資料編集所所蔵のマイクロフイルムから、個人所蔵資料は琉球大学教官の宮里政玄、仲宗根勇、宮城真宏、大屋一弘、城間理夫の5氏から提供して頂いた。那覇地方検察庁に移管された民政府裁判記録および個人所蔵の文書等複写を含めて戦後資料の収集は昭和49年度に終了した。(「図書館年報」(昭和49年度)及び「びぶりお」8巻4号参照)
 戦後資料複写計画は1971年(昭和46)10月からの予定であったが、予算の問題があって実際の複写事務は昭和47年6月から開始された。民政府文書室にゼロックス機を2台設置して、附属図書館の新井整理係長(委員)をキャップに複写作業は図書館非常勤2名で終日行なった。当時のキャップの新井氏によると USCAR 資料は民政府文書処理担当官ション・O・ローチ二世が米国公文書館に送るものとそうでないものを選別をして、残った資料を本学の教官が選択したとのことである。実際に複写を担当した一人の盛島明哲氏(現県立図書館勤務)によると無数のダンボール箱の中に入った資料からローチ氏が選別をし、彼の許可したものだけを複写したと述べている。戦後資料は昭和49年6月より製本を含めて整理事務は山田氏(図書館参考調査係長)が引き継いだ。仲西盛秀氏(当時参考調査係)によると60万枚近い戦後資料のうち、米・琉政府往復文書500巻(約125,000枚)の製本準備に追われ、戦後資料には書名がなかったので山田氏が統一書名をつけて、製本リストを仕上げたとのことである。

  1. 沖縄研究資料調査収集小委員会
     昭和57年3月15日沖縄研究資料の整備をはかるために、附属図書館運営委員会の下に、学内の教官10名で構成された沖縄研究資料調査収集小委員会(委員長我部政男教授:政治学・政治史)が設置された。
     附属図書館が創立以来、鋭意、沖縄研究資料を収集してきたが、図書館だけでは収集できない側面もある。種々の沖縄研究資料が、新たに発掘されているのを見聞するとき、沖縄研究の中心となるべき琉球大学が、積極的にこれらの資料を収集すべきであると考える。(「びぶりお」15巻4号、「図書館年報」(昭和56年度)参照)
     なお、現在は「琉球大学附属図書館沖縄研究資料調査収集専門委員会」の名称のもとに、毎年、沖縄研究資料の大型収集計画を行っている。


第6回九州地区国立大学図書館協議会(当番 館:琉球大学、会場:那覇市寄宮ゆうな荘
 国立移行後、琉球大学は九州ブロックに復帰し、昭和48年(1973)5月10日長崎グラバ−亭で開かれた第3回九州地区国立大学図書館協議会及び翌11日長崎大学で開催された第24回九州地区大学図書館協議会に初参加した。
 3年後、1976年(昭和51)4月22日、ゆうな荘(那覇)の5階大ホールで九州地区国立大学12校の館長、事務部長(九大、鹿大)、課長(九大)、事務長25名が参加し、第6回九州地区国立大学図書館協議会総会が開催された。本学が当番館になった初めての会議であった。伊江朝章館長を議長に選出、議題は外国学術雑誌の確保のための予算処置について、大学の研究・教育に対する図書館の在り方とその改革について、図書館の増員について、課長(事務長)補佐の新増設について、指定図書購入費予算の復活について、役員館について、であった。会議終了後、6時より同ゆうな荘で公私立大学の館長、部課長、事務長を含めて懇親会が行われた。4月とはいえ、既に初夏を思わせる気候であった。いまでは考えにくいことであるが、日頃冷房機の騒音で会場周辺の住民から苦情を受けていたホテルの関係者が大会初日の夜に冷房機を止めたため、投宿した参加者にご迷惑をお掛けし、窓を明ければ蚊が飛んでくるため蒸し暑い夜を過ごさせた。翌日ホテル側と交渉し、2日目から冷房機が作動したと聞いて安堵したが、同時に今後の大会運営の教訓となった。

第27回九州地区大学図書館協議会
 翌23日は九州地区の国公私立の大学の館長、部課長、事務長など52名が参加して、新規加入館の承認、幹事館報告など終了後、全体総会に移り、九州大学の館長を議長に議題は、(イ)「学術雑誌総合目録 人文科学欧文編」、(ロ)大学図書館間ネットワークの具体化について、(ハ)会費等の値上げについて、(ニ)総会当番館に対する援助費の増額と協議会会費の値上げについて、であった。
第6回九州地区国立大学
図書館協議会風景
第27回九州地区国立大学図書館協議会風景

附属図書館の電算化
 図書館の電算化は昭和47年の本土復帰以前から講演等で本学図書館へ招聘した講師等の助言・支援もあって、将来の図書館電算化に向けスタッフ養成に取り組んできた。しかし本格的に活動を開始したのは昭和49年に図書館職員で構成するコンピュータ研究会を設置した時からである。昭和49年10月3日に第1回コンピュータ研究会を図書館館長室で開催した。昭和50年2月6日までに6回のコンピュータ研究会を開催したが、その間の昭和49年9月12日に本学理工学部電子計算機室長の山下嵩教授、宮里愿氏(現図書館システム管理係長)を招聘して研修会をもった。昭和51年には計算機センターの協力で雑誌の各種リストをFACOM230-15で出力、昭和52年には同機を用いて学術雑誌所蔵目録(欧文編)を編集した。昭和52年8月11日には第1回夏季館内職員コンピュータ研修会を16日まで理工学部機電ビル内の計算機センターで開催、第2回目は8月23日から24日まで、第3回を8月25日から26日まで開催、研修を受けている。

日米友好基金
 アメリカ研究図書については本土復帰(昭和47年5月)以前は本シリーズでも紹介したように、1960年以来アジア財団の援助で逐次整備されてきたが、国立移管後は昭和52年1月17日付で、日米友好基金との協力で日本の大学におけるアメリカ研究コレクションを充実するための機関として琉球大学が指定されたとの文書がアジア財団日本事務所(連絡代表ジェームス L. スチュアート氏)から学長宛に届いた。同年9月14日アジア財団の日米友好基金訪問コンサルタントで、ユタ大学教授のウイリアム・マルータ博士が来館し、日米友好基金の本学に対する援助等について懇談した。昭和53年2月2日アジア財団日本事務所から職員が来館、日米友好基金によるアメリカ研究図書についての話合いが館長室でもたれた。同年3月2日にアジア財団日本事務所(連絡代表ジェームス L. スチュアート氏)から寄贈図書1,541冊が本学へ届いた。さらにアメリカ研究資料の充実を図るため、第1回アメリカ研究図書選択委員会が1979年(昭和54年)2月20日に開催された。委員は本学の法文、教育、教養、短大の各学部より選出された9名の教官で構成され、アメリカ研究の各分野にまたがった。委員長に法文学部の宮里政玄教授を選出した。

全学スト
 1972年の沖縄の日本復帰が目前になるにつれて、沖縄返還協定の内容をめぐって社会は激動、学生運動も一段と激しさを増したようである。又、授業料値上げ反対をめぐる大学側と学生側の団交は国立移行後も続いた(「琉大風土記」参照)。沖縄の本土復帰(昭和47年5月15日)前の1969年より沖縄返還協定批准反対の学生自治会等による全学ストが度々繰り返され、その度に図書館玄関に机、腰掛などでバリケードが敷かれ、図書館の閉館を余儀なくされた。全学ストによる図書館への影響は「琉球大学附属図書館三十周年略年表」に記載されただけでも下記の通りである。

1969年2月3日 図書館封鎖 3〜4日。ゼネスト(県民大会)
 〃  4月26日   〃   28日まで。
 〃  11月14日 全学スト、図書館封鎖
1970年5月23日 全学バリスト、図書館封鎖される。
 〃  5月29日 全学スト、図書館封鎖される。
 〃  6月19日 全学バリスト、図書館封鎖される。23日まで。
1971年4月14日 学生自治会により図書館封鎖される。15日まで。
 〃  5月19日 図書館封鎖される(ゼネスト)
 〃  6月15日 図書館封鎖される。17日まで。
 〃  11月10日 沖縄返還協定批准反対ゼネストがあり図書館は休館した。
1972年10月28日 学内封鎖
1973年1月19日 学生自治会により図書館封鎖される。
 〃  1月25日 学生自治会により図書館封鎖26日までバリスト
1974年4月26日 学生自治会により図書館封鎖
1976年2月10日 学生自治会によりバリスト、図書館封鎖される。12日まで。

沖縄関係医学保健学資料収集委員会

 委員会の名称を「沖縄関係医学保健学資料収集委員会」として、日本民族衛生学会沖縄支部、琉球大学保健学部、医師会、看護協会、沖縄県環境保健部、沖縄県生活福祉部、沖縄県教育委員会、琉球大学附属図書館が構成員となり、昭和53年2月10日に設置された。収集資料は琉球大学附属図書館へ寄贈されることになり、資料収集は、昭和56年10月6日に同委員会が解散されるまで、毎年継続された。同委員会は、収集資料の目録を発行し、資料の管理は医学部分館が行うことを決定した。また、USCAR(米国民政府)資料や終戦直後の群島政府時代の資料収集については、追跡調査が今後の課題となった。(昭和58年12月10日発行「沖縄関係医学保健学資料収集目録」より参照)つづく

(とよひら ともみ : 図書館専門員)

図 書 館 封 鎖 風 景