琉球大学附属図書館のあゆみ
〜 シリーズ 3 〜


豊 平 朝 美 



発展期 (1960年代)
 布令大学から政府立大学へ
 琉球大学20年誌によると、1950年開学を目指して琉球大学の創設を推進した米軍政府は、1949年10月19日琉球列島米国軍政本部指令第22号 (琉球の教育制度) を公布して、軍政府情報教育部が琉球大学を所管することを明らかにした。開学当初の1年間は本学の正式な管理機関もなく、その根拠となる法令も制定されていなかった。1951年1月10日民政府布告30号で琉球大学基本法の制定と大学理事会が設置され、管理運営が明確になった。1952年2月28日の布令66号で琉球教育法が発布され、第14章の琉球大学で琉球大学の基本法が整備された。さらに大学の民立法化を求め、大学の自治を明確にするため学内で研究と準備が進められ、琉大法案ができた。1965年琉大二法(琉球大学設置法・管理法)案が行政主席により立法院で立法勧告され、同年7月に可決され、1966年7月1日から施行されることになった。これによって米軍の布令立大学から民立法による琉球政府立大学になった。その際、図書館の司書職は人事院の査定により図書館管理職になりその他の職員は従来通り一般事務職となった。図書館の資料費もこれまでの米国民政府援助金及び布令大学時代の予算から1966年度以降琉球政府の予算により運営され、同時に日本政府より日政援助といわれた資金援助が開始され、蔵書の充実がはかられた。

 参考司書の設置
図書館年報1966年度によると、1964年 (昭和39) 10月1日より組織機構改革により図書館サービスを強化するため参考司書が設けられた。参考司書に3名を配置したが、それ以前は参考調査業務は閲覧係で行われていた。1966年6月に参考司書を館長直轄にして、参考業務、情報管理業務を強化することになった。参考司書は図書館資料の収集計画、郷土資料等特殊書誌の作成、郷土関係資料の複写計画、図書館教育、主題別分野の調査研究、図書館相互利用、参考質問の回答、参考文献に関する情報調査を行っていた。国立移行後は参考調査係に改組され定員2名になり沖縄関係資料の収集に重点を置くとともに参考業務を行ってきた。

 図書館建設研究委員会の発足
 山田勉氏 (当時委員会書記) の図書館建設研究委員会の報告によると以下の通りである。


 以上が報告の概略であるが、その後、1970年6月20日の琉球大学基本構想について第6章 「図書館及びその他附属施設の図書館」 に関する構想を踏まえつつ、昭和52年 (1977) 5月6日に 「大学改革委員会への諮問事項について」 として附属図書館長より学長宛諮問を依頼している。それによると学生数5,000人、蔵書数35万冊収納可能の地下1階、地上3階とし、総面積4,985とした現在の千原キャンパスの旧館 (6,134) よりやや小さい。その後学内のマスタープラン委員会に委任され、面積において文部省基準の資格面積5,440と制限されている。(図書館年報1967, 昭和52年度参照)
 昭和53年度年報によると、琉球大学改革委員会は昭和51年5月15日付学長から諮問された移転統合地における附属図書館の在り方についての最終答申を昭和54年2月16日に学長へ報告したとなっている。

 図書館建築研究委員会の発足
 一方、附属図書館でも新キャンパスへの移転に際しての図書館建築を研究させるために、図書館建築研究委員会を設けることになり館員の中から委員4人 (山田勉、松島寛正、仲西盛秀、平陽子の各氏) を割り当て、昭和49年9月3日、第1回の図書館建築研究委員会を開催、図書館建築の基本方針について討議した。委員会は先ず資料の収集を図り、何回も平面図作成を試みた。昭和53年5月26日、3年以上に亘って収集した資料を踏まえて、「図書館建築の基本方針−試案−」 を作成して、館長に報告し、同月30日に 「図書館建築設計資料」 として、図書館事務長より施設部企画課長へ手渡された。

[郷土資料収集]
 奥里文庫の入手について
 奥里将建氏所蔵の図書を神戸在住の千鶴子夫人の御芳志により1965年12月24日付書簡で琉球大学へ譲渡の意向が伝えられた。
泉鏡花作「婦系図」の自筆原稿


 *奥里将建氏は方言・国語学者、沖縄研究者で同氏は1888 (明治21) 年5月18日、沖縄県宜野湾間切 (おきなわけん・ぎのわん・まぎり) に生まれ、検定試験で高等教員の免許を取り、後に京都大学国文選科で半年ほど学んだ。1908 (明治41) 年宜野湾小学校を振り出しに沖縄県内の各小学校や県立中学校で教鞭をとり1929 (昭和4) 年からは、神戸で教員を勤めた。最初は、古事記・万葉といった上代語の研究が中心であったが、院政〜室町、琉球方言から四国・近畿方言と領域を広げる。(野原三義氏執筆:沖縄大百科事典より引用)

 蔵書の内容は国文学関係 (2,240冊)、万葉集関係 (117冊)、方言学関係 (170冊)、計2,527冊であった。その他に千鶴子夫人のご意向で色紙、短冊、泉鏡花の婦系図の自筆原稿等 (第6編の4枚) が寄贈された。同氏所蔵の図書の中には沖縄関係資料173冊があったが、琉球政府文教局教育研究課県史編纂委員会事務局 (名嘉正八郎氏) が入手 (840ドル:302,400円) した。
同図書の入手にあたって、文理学部国語国文学科教官で図書評価を行い、図書館側も参加して、検討した結果、3,500ドル (126万円) で決定、夫人に提示したところ、その承諾を得て、譲渡がきまった。その受取りのため、図書館職員 (受入管理係長山田勉氏) が派遣され、その旅費はアジア財団が負担した。

 伊波普猷先生の御墓と顕彰碑建立の寄付金募金について
 びぶりお前々号の117号でも記載した通り、ロックフェラー財団の援助により伊波普猷の蔵書が1955年 (昭和30年) に当館に譲渡された。冬子夫人のご厚意と仲宗根政善館長 (当時) のご尽力で実現したわけであるが、当館では伊波普猷文庫として保存し、これまで内外の利用に供してきた。譲渡された170点近い資料には 「屋嘉比工工四」 (18世紀の琉球三味線音楽の祖;屋嘉比朝寄の楽譜で沖縄県重要文化財) や田島本おもろさうし等の他、貴重な資料が多数ある。そこで伊波文庫に関係する伊波普猷とはどんな人か本学にも寄せられた 「伊波普猷の御墓と顕彰碑建立の寄付金募金」 の趣意書から触れてみたい。昭和35年に伊波普猷の14年忌 (昭和22年8月13日に72歳で死去) にあたり、伊波普猷先生顕彰会がお墓と顕彰碑建立のため下記の趣意書のちらしのとおり募金運動を始めた。

伊波霊園案内板

以上が趣意書の概略であるが、伊波普猷の人となりを彷彿させる。平成9年に沖縄タイムス紙に連載された 「人間・普猷」 の21号によると、お墓を造るにあたり、1959年3月に有志らで 「伊波普猷先生顕彰」 発起人会を組織、県内の小中高を含む県民の他、県外からは東京、関西、九州、ハワイ等から寄付金を募り、1961年8月14日の沖縄タイムスでは総額3,878ドル32セント(139万6千195円) が集まったという。募金は本学にも呼びかけられた。生前普猷が 「私の眠る場所は那覇の街が一望でき、東シナ海と慶良間列島の見えるところ」 という普猷の願いをかなえるため、顕彰会有志が浦添村と交渉した結果、伊波霊園は浦添城跡入口からわずかに入った南側に建立された。普猷が* 「浦添考」 を著わし、その歴史をあきらかにしたことにより地元浦添が 「浦添ゆかりの人」 として 「沖縄学の父」 伊波普猷を受け入れたのが同地に建立できた大きな理由だったと記載されている。伊波霊園は欝蒼とした茂みの坂を登った中腹あたりから脇道に入り、その奥まったところにある。お墓の入口右側に顕彰碑があり、その碑におもろと沖縄学の父伊波普猷とあり、「彼ほど沖縄を識った人はいない」 から始まる東恩納寛淳の撰文がある。閑散とした静かな霊園の周りは木々が茂み、今はここから普猷の古里那覇の街を展望しにくくしている。

*浦添は首里城遷都以前に三代の王統の王城のあったゆかりの地であった。

 沖縄史料編集所の本館所蔵資料の複写
 1968年3月26日から10日間にわたって沖縄史料編集所が当館所蔵資料をマイクフイルムに複製した。複製内容は伊波普猷文庫、島袋源七文庫、宮良殿内文庫、Bull文庫、仲原善忠文庫、その他一般郷土資料など約300点の資料である (1968年度図書館年報より)。当館も沖縄史料編集所蔵の復帰運動関係史料や、昭和18年の裁判訴訟資料等を複製し、県内の関係機関は相互に協力して、沖縄関係資料の収集を図ってきた。

充実期 (1970年代)
 本土復帰を目前に琉球大学の国立移行のための準備や職員の資質向上のために研修が実施された。その一環として他大学へ講師の派遣を依頼して、慶応義塾大学より津田教授、東大附属図書館より松田館長、田辺、黒住、柿沼の各氏が相次いで来館、大学図書館における文献探索、書誌サービス、外国の図書館事情、図書館電算化業務に関する講演等を行い、多くの示唆と感銘を与えた。又、会計処理についても琉球政府時代と会計法の異なる国立大学の会計事務を円滑に進めるため、国立移管直後の昭和48年に1月22日から2月18日まで約1ケ月近く、宮崎大学より職員 (用度係山下富重氏) が本学図書館に派遣された。沖縄関係資料については戦後資料を含めた収集が行われ、その戦後資料については学内に琉球大学戦後資料収集調査委員会が学長のもとに設置され、戦後沖縄に創設された米国民政府の文書等資料の収集を開始した。図書費については、本土復帰前の日本政府の日政援助から国立移管後は文部省により本土国立大学との蔵書の格差を是正するために昭和47年度より格差是正費 (年間6,000万円) の援助が開始され、昭和51年度まで5カ年継続した。
 この格差是正費で特に雑誌のバックナンバ−が重点的に整備され、6,000万円のうち、昭和47、48年度は各年2,000万円づつ、昭和49年から51年までの3ケ年は各年倍額の4,000万円が充当され、5ケ年の総額は1億6,473万円で1,049タイトル15ケ年分の雑誌のバックナンバーを購入した。資料費全体としては格差是正費を配分した昭和47年から最終の昭和51年度までは順調に伸び、その配分額は国立大学の平均に近く、国立移行以前とは比較にならないほど充実がはかられた。昭和52年度以降は格差是正費の消滅に伴い、学生用図書費として1,500万円の学内配分と文部省より沖縄関係資料収集費と自然科学系外国雑誌購入費の特別配分があり、配分額の変更はあるものの継続されたが国立他大学との格差が広がっていった。その他、地域との密接な連携を図るために結成された全沖縄大学図書館協議会が発足した。

図書館資料費の推移

 事務組織改正

 国立大学への移行に伴い、参考調査係、図書係 (保健学部図書室) が新設され、従来の受入管理係、整理係、閲覧係に加えて、5係となった。それに先だって、保健学部に図書室が設置された。1970年10月に保健学部ビルにおいて専門課程の講義が行われ、図書室も標本室を転用して開室した。閲覧席は12席あり、職員は2人 (内1人は非常勤) であった。図書費は日本政府援助で賄われた。

 夜間開館時間の1時間延長
 1970学年後期において、短大部学生と学長との団交の結果、テストケースとして従来の午後9時から1時間延長して午後10時まで夜間開館を行うことになった。一学期間行ってみた結果、試験期については予算面での保障さえ確保できれば考慮の余地もあるとしながらも、延長した割には入館者が少ない等利用面での効果、予算上の問題、カウンタ−勤務の職員の保健上の問題 (当時は職員2人で午後5時からの超過勤務として当番制で勤務した) 等があるとして、再び通常の午後9時に戻した。(図書館年報1970-71年度参照) 

 全沖縄大学図書館協議会結成大会
  『琉球大学三十年誌』 によると国立移管を前に、中央図書館制度の維持確立のため、図書館運営の基本方針の確認や図書館相互協力活動の制度化を諮った。特に国立大学図書館協議会や地方ブロック協議会などを参考に将来、中央と密接な関係を想定すると沖縄においても大学図書館協議会の結成の必要性があった。このため、本学より他の私立大学に趣意書を送付して、全沖縄大学図書館協議会の創設の重要性を説き、本学の長浜館長を中心に結成準備会が発足し、1970年11月7日琉球大学附属図書館(志喜屋記念図書館) 4階において設立総会が開催され、正式に結成された。
昭和49年度図書館年報によると、その目的は会則第2条に 「大学図書館共通問題を研究協議し、その健全な発展を期すること」 で、その目的達成のために、1.大学図書館の連絡提携 2.大学図書館の調査研究 3. 研究集会、講習会、講演会、展示会 4.会誌の発行の事業を行うこととなっている。復帰後は沖縄県大学図書館協議会 (略称:県大図協) と改称された。本学図書館が幹事館になり、沖縄大学、国際大学 (沖縄大学の一部教職員、学生と合併後に現在の沖縄国際大学に名称変更)、沖縄キリスト教短期大学、沖縄女子短期大学など当初5校で構成したが、現在は、沖縄県立芸術大学、名桜大学が加わり、7校が当番校を持ち回りして、年1回の総会と各大学選出の企画委員を中心に講演会・研修会開催など行っている。会員相互も緊密な関係を維持しており、資料の貸出など相互協力も行っているが会誌の発行は現在に至るまで実現していない ( 『沖縄の図書館沿革小史』 一部参照)。つづく
(とよひら ともみ : 図書館専門員)