「 琉 球 の 種 痘 」
−金城清松先生の偉業−


前医学部分館長 福永利彦


 最近、「沖縄の歴史と医療史」 (琉球大学医学部附属地域医療研究センター編、九州大学出版会1998年3月31日初版) というハードカバーの立派な書物が刊行された。1部 沖縄 (琉球) 医史概略 2部 歴史のなかの医学史 3部 沖縄医療史の展開の3部から成る力作である。
 琉球の天然痘 (痘瘡とも呼ぶ) ないし種痘については、医史概略のなかで 「1766年 上江洲倫完が人痘鼻乾菌 (註:苗が正しい) 法を行う」 という記載と 「1805年 この頃、痘瘡歌、粟国親雲上編や痘瘡神迎 (ちゅらがさかんむけー) が行われた (13年ごとに中国や日本から痘苗を取り寄せ予防的に流行させた)」 という記載がある。また、p.45 にはベッテルハイムが藩医であった仲地紀仁にひそかに牛痘種痘法を伝授した、と述べられている。
 実は、昭和38年 (1963年) に金城清松著の 「琉球の種痘」 と題する108ページの単行本が発行されている。この書物は、琉球の天然痘と予防のための種痘について、文献的に良く検証し、聞き取り調査も加えた極めて興味深い、すぐれた琉球医学史研究書である。ところが、天然痘が根絶されたこともあってか、忘れ去られようとしていることを筆者は残念至極に思い、ここに紹介したいと考えた次第である。なお、著者金城清松は、琉球大学医学部生理学第一講座の初代教授、故金城清勝先生の厳父に当たられ、筆者は清勝先生よりこの書物のご恵与にあずかったのであった。清松先生は、明治33年に内務省医術開業免許状を取得された、沖縄の医師の草分けであられた。当時医療上の最大課題であった結核の診療と予防に尽くされ、敗戦後も沖縄医学界の長老として指導的な活躍をされていたが、この書物を発刊された1963年は、なんと83才という高齢であられた。
 また、この書物に寄せられているいくつかの序文も当時の状況を知る上で興味深い。そのなかで、1962年当時、琉球資料研究会理事、文化財保護委員会専門委員の役職にあった、源武雄の序文の一部を要約すると以下のようである。

 1961年の春頃、沖縄タイムスの学芸欄に某郷土史研究家の「旧藩時代における天然痘による人口調節について」という随筆が載った。その主旨は、琉球を支配していた薩摩は琉球が強大になるのを恐れ、その人口を調節するために10数年ごとに天然痘の病菌を持ち込み、天然痘の流行を起こさせていたふしがある…というものであった。私 (註:源武雄) は、この説に賛成しかねる。それは、以下の理由による。旧藩時代は本土も琉球も共に人口増加率が低かった。それは、(1) 経済力に乏しい、重税に苦しむ庶民の間に禁令にも拘わらず間引きという、自らの手で行う産児調節が一般になされていた。(2) 産業が未発達で備荒食料作物のイモ等が普及していなかった時代であり、凶作の年には多くの餓死者がでた。(3) 天然痘、コレラ、チブスなど伝染病に対する予防法がなく、流行の度に人口が減少した。(4) 支配者側は、税収 (人頭税など) を確保するため労働人口が減少することを極度に警戒した。特に、天然痘は貴賎を問わず人命を奪ったので、これを用いて人口調節をするとは、考え難い。
 ただし、琉球政庁では天然痘流行の兆しがあるとき、薩摩や支那から天然痘患者の痘疱痂屑を取り寄せ、広く人痘鼻乾苗法を行い、軽い症状で経過させ、大流行を抑える方法が採られていたようなので、某郷土史研究家はこれを誤解しているのではないか。この点についても、金城清松先生に解明をお願いした次第である。…

 そして、琉球政庁は、人痘種痘法を施行するためその材料を薩摩と支那から入手していたことが、「琉球の種痘」 で明らかにされている。この方法が1805年ごろに盛んであったので、前述の 「1805年 この頃、痘瘡歌、…」 の記載となったのであろう。ここで問題になるのは人痘種痘法 (鼻乾苗法) である。この方法は、乾燥した痘疱のカサブタ (痂) を粉末にすりつぶしたものを銀管、または竹筒で鼻腔へ吹き入れる方法であり、ヒトの天然痘ウイルスをヒトへ接種する訳だから、危険性がゼロであるはずがない。危険性には二通りあり、一つは種えつけられた個人の生命の危険であり、他の一つは、その個人が軽症で済み、生命が脅かされることが無かったとしても、目に見えぬ形で周囲へウイルスを散布し流行を起こす可能性である。この後者を予防的措置として止むをえないと捉えるか、人口調節のための支配者の政策と捉えるかの問題があり、筆者は源武雄の考えに同意する。
 ここで、天然痘について少し説明しておきたい。というのは、天然痘は既に地球上から根絶されており、日本では1976年以降種痘は廃止された。したがって現在、大学1〜2年生に相当する世代より若い人達は種痘を受けておらず、天然痘を知らない人が増えてきたからである。人類は大昔から天然痘によって苦しめられてきた。エジプト古代王朝のラムセス5世 (BC 1100年頃) のミイラの顔面の天然痘と思われる斑痕 (痘疱) の写真は、専門書などによく載っている。天然痘は上述のようにウイルス感染によって起こる疾患である。主な感染経路は空気伝染で、患者の痘疱が乾燥し微細な落屑となると空気中に浮遊し、それを吸入するとウイルスが感染する。致死率は30〜50%と非常に高い。治癒しても盲目になったり顔面にアバタが残る。人痘種痘法が行われる以前は、アフリカ、中近東、インド、中国、日本などで、それぞれ独自の天然痘守護神にたいする祈願や呪術が行われていた。
 一方、人々は経験から一度天然痘に罹ると二度は罹らないことを知っていた。そこで、更に押し進めて、できるだけ軽い (と思われる) 天然痘に承知の上で罹らせる方法を考え出した。それが、人痘種痘法である。この方法は恐らく中近東辺りで起こり、西と東へ伝わったと考えられている。以下 「琉球の種痘」 を引用すると、日本へは中国を経て伝わった。西洋への広がりは、駐トルコ・イギリス公使夫人 (モンタギュー夫人) の熱心な普及活動が有名である。夫人はコンスタンチノーブルで息子に人痘種痘を受けさせ、それが成功した。イギリスに帰国後は、娘にもこれを施行し、さらに、成功すれば死刑を免除するという条件を当局から取りつけ死刑囚7名に実施した。幸運にも死亡例はなく、本法の普及に貢献するところ大であった (1721年頃)。ドイツ、フランスでも行われるようになり (1723〜4年ごろ)、ロシアの女帝、カザリン皇后は英国人医師、デイムスデールを招き、自分自身のみならず皇太子にも人痘種痘法を施行し、成功した (1768年)。この方法は安全性ではやはり問題があり、死亡する例や小流行もあったはずだが、正確な記録は残されていない。
 琉球における人痘種痘法は、1766年に上江洲倫完 (那覇西村新嘉喜倫篤家祖) が初めて施行した。これは、日本における最初の人痘種痘法が秋月藩の緒方春朔による1789年であったのより23年も早い。金城清松は 『当時、日本は鎖国時代であったのに対し、琉球は支那と自由に交易し、留学生も送っていたので、支那式人痘種痘法が記された 「医宗金鑑」 も日本より早く輸入されていたからであろう』 と述べている。
 他方、牛痘種痘法の発見はエドワード・ジェンナーによる。牛の乳絞り達が牛痘 (牛の天然痘) に罹るとヒトの天然痘には罹らないという話を耳にし、長年にわたってその事実を確認したのち、近所の少年フィップスに牛痘を接種した (1796年) のが発端である (日本の戦前の小学校教科書では、「息子フィップスに」と改変し、美談として教えていた)。因に、ジェンナーが第一報の論文を英国王立協会学術雑誌に投稿したが拒否され、やむなく自費出版したのが丁度今から200年前の1798年であった。次第に牛痘種痘法の安全性と有効性が一般に認められるようになり、1802年英国議会はジェンナーに10,000ポンドの謝金を送る決議をした。その後英国では人痘種痘法の危険性が明確に認められるようになり、1840年にこれを禁止した。現在、人類が恩恵を蒙っている予防ワクチン接種という考え方は、正にジェンナーから発したものである。語源的にも、ワクチン (VACCINE) という語は、ラテン語の牝牛を意味する「VACCA」からジェンナーが転用してつくった新造語である (彼の論文で始めて用いられた)。それが現代では、予防の対象が天然痘以外であっても全てワクチンと呼ばれているのである。
 琉球における牛痘種痘法については、金城清松の著書に 「琉球における牛痘伝来は 1837年 (天保8年、道光17年、尚育王10年)、モリソン号に同乗して那覇港に寄港した支那在住の米医師パーカーが伝授したのと、1846年 (弘化3年、道光26年、尚育王19年) 来琉したベッテルハイムにより仲地 (当時、宇久、仲地紀晃家祖) 紀仁が習得して施行したのと二つである」 とある。ベッテルハイムは、プロテスタントの伝道者として来琉したが、医師でもあった。彼が持参した牛痘は善感 (きれいに痘疱を形成すること) しなかったので、紀仁にひそかに教示し、牝牛の乳房にできた膿疱を探させた (当時、琉球政庁はベッテルハイムとの接触を人々に禁じていた)。なかなかみつからなかったが、ついに紀仁はそれを見い出し牛痘種痘を施行しはじめたのが、1848年から1850年頃と考えられている (金城清松)。なお、琉球政府は仲地紀仁を描いた牛痘実施120周年記念切手を1968年に発行しており、これは1848年説を採用していることになる。
  「琉球の種痘」 は、前述のように1963年の発行であり、未だ天然痘根絶の記載はない。勿論、米軍占領下の時代である。出版許可が昭和37年6月8日に得られたことが記されており、当時の状況を我々に思い起こさせる。沖縄戦により貴重な資料は焼かれ、なにもかもが困難な時代であったろう。しかも清松先生の80才を超えてからのお仕事であり、明治人のすごさを見る思いがする。脱帽して、金城清松先生の偉業を賛えたい。
(「琉球の種痘」 は故金城清勝名誉教授のご厚志により、琉球大学図書館と同医学部分館に寄贈されています。)
(ふくなが としひこ:ウイルス学教授)


「琉球の種痘」 の請求記号は
中央館 (千原) K491. 8Ki45
医学部分館 (上原)  WC588
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