琉球大学附属図書館のあゆみ 〜シリーズ 2〜


豊 平 朝 美



発展期 (1960年代)
 最初の木造瓦葺き建附属図書館建設から10年、 志喜屋記念図書館が新築されて5年が経過した1960年代は、 図書館の整備・充実期に入り、 雑誌閲覧室、 郷土資料室の設置によって両資料の活用が促進された。 さらにロックフェラー財団やアジア財団の援助により人材育成や資料の収集など積極的に行われた。

 
立当初の木造瓦葺の創附属図書館

(琉球大学30年誌より)



予算面から見ると図書費は下記の通りである。
1965年度当時、 当館の図書費は22,000ドル (792万円) で国立大学平均3,882万円でかなりの格差があったが、 1966年度から日本政府による援助 (略称:日本援助) が開始され年間20,000ドル (720万円) が配分された。 さらに、 1970年度は保健学部用として6,250 (225万円) ドルが追加され日政援助は総額26,250 (945万円) ドルに増額した。
琉球政府の予算 (琉政予算) では十分な資料費の手当てが出来なかったが、 それでも日政援助により図書の整備は大分緩和されてきた。 琉大の資料費は当時の本土の国立大学の単科大学 (D規模大学) の平均値位で琉大の規模 (B規模大学:5-7学部) からすると昭和45年度を例にとっても琉大は2,376万円、 国立B規模大学平均7,621万円で国立C規模大学 (2-4学部) でさえ3,811万円でかなりの格差があったことは否めない。
(注、 国立大学の規模別資料費は文部省大学図書館実態調査結果報告による)



年  度
予  算  額
年  度

予  算  額
国立D規模大学
1961年度
18,000ドル (648万円)
1966年度

40,000ドル (1,440万円)
1,516万円
1962年度
17,000ドル (612万円)
1967年度

60,000ドル (2,160万円)
1,770万円
1963年度
17,000ドル (612万円)
1968年度

70,000ドル (2,520万円)
1,950万円
1964年度
20,000ドル (720万円)
1969年度

78,000ドル (2,808万円)
2,215万円
1965年度
22,000ドル (792万円)
1970年度

66,000ドル (2,376万円)
2,372万円


 1951年米国教育審議会と米国陸軍省の援助により米国ミシガン州立大学から教授団が本学に勤務して教育行政や研究活動等に対して行った援助や助言も1968年に終了、 18年間にわたる教育交流プログラムが終了した。 米国統治下の沖縄の本土復帰を目前にして、 1969年琉球大学国立大学化問題等審議会から琉球政府主席に対し 「琉球大学の国立移行について」 建議され、 本学も国立大学への準備を進めることになった。 (琉球大学附属図書館30周年略年表より一部参照)

ロックフェラー財団による資料購入援助と人材養成
 1961年図書購入として200ドル (72,000円)の範囲でロックフェラー財団の援助資金で図書購入を計画している。 その選択基準として職員研修用資料として重複はさける通常予算で買えない高価で貴重な資料を購入する可能な限り複本を揃えるとしている。
 その他、 この財団援助で様々な図書館職員の人材養成が行われた。 1960年4月1日より1961年3月31日まで1ヶ年山城篤博運用係長が慶応義塾大学へ、 大城重雄司書が1961年9月30日まで米国イリノイ大学へ各々留学した。 翌年1961年4月1日より9月30日まで山田勉司書、 新井裕丈司書補が、 慶応義塾大学へ研修、 1961年10月1日より新城安善、 宮島恵曠司書補が、 又、 平良恵仁事務長が10月6日の広島での第8回全国国立大学図書館館長会議にオブザーバー (ミシガン大学派遣教授団ベンコ博士も当時の第3代仲宗根政善館長の代理として参加) として出席した後、 1962年3月31日まで慶応義塾大学へ各々研修を受けた。 1962年4月1日より1963年3月31日まで1ケ年間仲西盛秀書記 (後に第2代医学部分館図書館専門員) が慶応義塾大学へ、 1962年6月石川清治書記 (後に教育学部教授) が同財団援助で Western Michigan 大学へ研修留学、 1963年6月に1964年2月15日まで期間更新している。 仲西盛秀書記は帰任後、 研修の成果として郷土資料分類目録を作成しており、 今日に至るまで当館の郷土資料分類法として使用されている。 石川清治書記は米国留学から帰任後1964年3月に講師として職員研修を行っており、 その後は1968年1月1日に教育学部講師へ転出するまで毎年新入生のオリエンテーションを担当している。 石川氏は教育学部転出後、 学校図書館学の専任講師となった。 1963年4月1日より1964年3月31日まで野原敏弘書記 (後に閲覧係長) が慶応義塾大学へ研修。 1964年12月16日にロックフェラー財団援助により同財団の援助の終了が報告された。

図書館職員研修
 1960年の年末の12月27日に午前中はミシガン顧問教官ヘルン氏が大学図書館論を、 平良事務長が図書館業務を担当して、 職員研修を実施、 27日〜29日まで研修の一環として図書館全員で1,500冊の図書の分類、 目録の作業を行っている。

図書館職員実務研修会
 1961年3月28日から29日までの2日間、 本学図書館で県内の学校図書館関係者及び各公共図書館関係者を対象に研修会が開催された。 第1日目は午前9時から午後4時まで、 午前中は当館の平良恵仁氏が図書館について、 ミシガン大学顧問教官ヘルン氏がレファレンスワークを、 上山中学校教諭の本村恵昭氏が学校図書館を、 当館の平良恵仁氏が図書館について、 同じく当館の山田勉氏が分類の講義と実習、 2日目も当館の宮島恵曠氏が目録の講義と実習を担当、 受講者は県内大学図書館、 中・高校の教諭など部外者31名を含む40名近くであった。

新入生オリエンテーション
 1959年のオリエンテーションは3月25日の午前中は文理学部271名、 午後は教育学部202名を、 26日の午前中は農家政工学部160名を対象に各々3時間のオリエンテーションで、 講義内容は図書分類法、 図書目録法、 館内見学、 実習指導があり、 図書分類法、 図書目録法は整理係が、 他は運用係が担当した。

時間外開館
 従来、 平日は午後9時、 土曜日は午後4時30分まで開館であったが、 1965年7月12日(月)より土曜日は従来通り開館し、 平日は午後10時まで延長した。 この開館は同年10月末まで継続したが、 11月より元の午後9時閉館に戻している。 1966年1月より再び午後10時開館になっている。 当時の夜間開館は職員1人と学生アルバイト1名で行っていた。

 
台風通過後の片付け(志喜屋記念図書館)



図書館台風対策
 図書館1階から5階までベニア板を取り付け、 張り棒で支えた。 しかし近代的建物も火災被災復旧後もその影響と老朽化が進むにつれ、 台風通過後は天井よりの浸水と窓際からの打ち雨で床が水浸しになり、 特に4、 5階はひどく職員はゴム長靴をはいてバケツで汲み出したが、 この作業は台風来襲の度日常茶飯事の出来事となり千原の新キャンパス移転まで続いた。

学生アルバイト
 1960年4月の閲覧業務で学生アルバイトを採用、 職員の昼食時及び夜間開館時のカウンター業務の補助を行っている。 その他、 午前2時間、 午後2時間を割当て、 検索、 排架に当らせている。
 又、1960年10月、別に大学生アルバイトを採用、図書館の1階から5階まで毎日階層を替えて清掃し、 月曜日は1階を午前7時から8時30分まで、 火曜日からは午後 5 時から7時まで2階から順序よく上階へ、 最終日の金曜日は5階を割り当てた。
 当時の学生アルバイトの賃金は時給13セント (46円) (ドル建て:当時の沖縄そば代1杯分) 平均月額1人当り5ドル (1,800円) 弱である。 琉球大学ファウンデイションによれば在学者2,000名の44%の約800名がアルバイトをしながら辛うじて学業を続けている状況であった。
 ちなみに1960年度の学生生活実態調査では1ヶ月の学資は15ドル (5,400円) で収入源は 「保護者」 「奨学金」 「アルバイト」 で15ドル〜17ドルに最も集中しており、 自宅からの通学者は5ドル (1,800円) 〜7ドル (2,520円) で学資の全額をまかなうことができるとなっている。

ハワイ東西文化センター図書館職員研修
 ハワイ東西文化センターの松井正人氏から図書館職員研修参加勧誘があり、 1967年4月から9月まで6ケ月間、 新井裕丈司書が琉球大学からの初回研修者として選ばれた。 1966年12月20日の松井正人氏から当館の宮城館長 (第4代) への英文の書状によると図書館現職教育計画は同センターの協力と同センター技術交流部の後援で行われ参加者は6ケ月間、 図書館で指示する仕事に従事することになっていた。 宿舎、 日当、 研修費、 健康保険は技術交流部により参加者へ支給されていた。 航空賃は参加者の勤務する機関の負担となっていた。 これまで琉球からの参加者は USCAR (United States of Civil Administration of the Ryukyus 通称ユースカーと呼ばれ米国民政府のこと) により交通費が支給された。
 1967年1月23日、 同センター副館長ライト氏から米国民政府教育局宛て書状によると現職図書館職員研修は1966年に琉米文化センターの儀部守男氏を1回目の研修生に、 1967年2月には那覇琉米文化会館司書島仲勝巳氏を2回目の研修生として受け入れた。 新井氏の航空賃の負担をこの書状で民政府に依頼している。 さらに図書館活動における沖縄と同センターとの文化交流は1965年に来島した松井氏が沖縄の図書館事情調査および助言によって始められ、 文化交流の一環としていることが記されている。
 1967年6月24日の新井氏から宮城館長宛の手紙では図書館での研修内容は月曜日から金曜日まで午後は特殊コレクションの書誌作成があり、 新井氏はその書誌の著者、 書名のローマナイズや読み方を確認する作業を行い、 月・水の午前は逐次刊行物の選択を、 火・木・金の午前は逐次刊行物の分類・目録を行った。 研修期間中に図書館学講義の受講や他の図書館見学もあるが、 研修の大半は書誌作成で、 あとは個々の研修者が計画したスケジュールに従って、 行ったようである。 又、 同センターはこの他、 1964年に両機関に所蔵する沖縄関係資料(東西文化センター所蔵宝玲文庫、 琉大所蔵伊波文庫、 源七文庫等)をアジア財団の援助で複製して、 資料交換を相互に行っている。
水野益継氏 (現教育学部教授) によると同センターは1960年アメリカ議会協賛の法律に基づき、 ハワイにおけるユニークな教育機関として、 東西の文化・技術交流センター (The Center for Cultural and Technical Interchange between East & West) を目指し、 ハワイ大学附属機関として設立されたようである。 太平洋沿岸のアジア、 オセアニア、 極東諸国、 アメリカ合衆国の学生らに向けて研究諸費用が支給されていた。 ハワイ大学にも留学させている。 1961年から1971年にかけて沖縄からUSCAR教育局を窓口として、 教育研修・技術研修・学位取得のため500人が当センタ−で学んだ (沖縄大百科事典より)。

宝玲 (ホーレー) 文庫について
 現在本館沖縄関係閉架資料室にハワイ大学の宝玲 (ホーレー) 文庫マイクロフィルム複製資料の一部が保管されている。 このマイクロフィルム複製資料はハワイ大学はもとより国内でも宝玲文庫の一部として法政大学沖縄文化研究所にも分散保管されている。
ハワイ大学のホーレー文庫設置のいきさつが当館所蔵の趣意書によって知ることが出来る。

[布哇大学 "沖縄文庫" 設置後援趣意書]


〔関係資料の焼失〕


〔布哇大学と沖縄研究〕


〔ホーレー文庫について〕


〔文化財の分散保護〕

 





 
志喜屋記念図書館(正面)

龍潭池より志喜屋記念図書館(右手)を望む