琉球大学附属図書館のあゆみ

−シリーズ1−

はじめに
 琉球大学附属図書館が1950年に創設されてから、 半世紀近くなろうとしている。 今日の附属図書館の発展を見るとき、 この陰に先人たちのたゆまざる苦労があったように思われる。 さらに創設後もハワイ県人会等海外の同胞、 ミシガン大学等米国大学及び文部省を始めとする本土諸大学による様々な援助のもとで資料の収集や、 人材育成等が図られたことが挙げられる。 そこで、 図書館先輩諸氏の限りない努力と研鑽を改めて見詰め直し、 これからの私達の道しるべにしていきたいということで附属図書館の足跡をたどってみた。

  • 草創期 (1950年代)
     1949年6月8日大学の本館と共に附属図書館の建築が始められ、 翌年の1950年4月25日に守礼の門より坂を上がった右側に床張りの木造瓦葺建が竣工した。 創立当初の蔵書は軍及びハワイ在住沖縄県人会等の海外同胞からの寄贈図書が凡そ3万冊で、 大半が洋書であったという。 「琉大風土記」 によれば、 工事期間中の1949年9月、 沖縄外国語学校名護分校で英語の教師をしておられた東江康治氏 (元学長) が民政府からの依頼で、 教室に寝泊りしながら開校間近い琉大に送られてくる図書の分類作業をしていた。 当時のことゆえ書籍のない時代で、 真新しい洋書の原書は魅力的であったようだ。  
     図書館は、 1950年5月5日に琉球大学文化センター (インフォーメーションセンター) として開館した。 インフォーメーションセンターでは最新の日米の書籍、 雑誌その他の情報資料を備え、 世界ニュースや映画も放映されていたという。 5月22日には琉球大学が開学した。 1952年4月、 仲宗根政善教授が初代館長として就任した。 1953年5月、 文部省図書館職員養成所で図書館学を専攻した平良恵仁氏が仲宗根政善教授に呼ばれ (在職中の本人から直接聞いた話による)、 図書館司書として勤務した。 当時の図書館は活字に飢えた学生たちで遅くまで利用され時間がきてもなかなか閉館できなかったという。 平良氏はその後、 1957年に事務長事務取扱、 1960年に初代事務長として定年退職までの30余年勤務し、 今日の琉球大学附属図書館の基盤を築いた。 1958年4月、 本土の国立各大学に図書館運営方法、 職務分掌、 機構など照会し、 手探りの中から、 草創期の図書館運営に様々な苦心をした。 図書館職員の増員に腐心し、 組織の強化と見直しを図ってきた。 1954年4月より夜間開館の実施、 殊に図書館職員の資質向上の為、 講習会等は機会あるごとに実施してきた。 中央図書館制度を導入し、 資料の効率的運用を図り、 蔵書の少ない図書館の整備のため、 本土の各大学、 機関に絶えず資料の寄贈依頼をし、 更に、 戦火で焼失した沖縄関係資料の収集については、 マイクロ複製等を含めてあらゆる機関を通じて入手に努め、 今日の沖縄関係資料の整備基盤をなした。
  • 宝くじの発行
     1952年初代学長の志喜屋孝信氏の退官を機にその業績を記念するため、 新図書館の建設を計画した。 琉球大学ファウンデーションが開学記念文庫基金をもとに1954年4月1日、 琉米親善委員会の協力で1鍵1ドル景品付き宝くじ22万本を発行、 1位は賞金1万ドル (120万B円) で2位から4位まで外国の高級車が当たるというセンセーショナルな宝くじで人々の関心を呼び起こした (注. B円はB型円軍票のことで戦後沖縄の米軍統治下時代の通貨で1948年7月にドルの替わりに法定通貨として指定され、 1958年9月のドル交換にいたる10年間使用されたもので1ドルは120B円に相当する)。 当時の地元の新聞 (沖縄タイムス、 琉球新報1954年4月) によると琉大の職員、 学生も街頭に繰り出し道行く人々に志喜屋記念図書館の建設に協力しましょうと呼び掛け 「幸運のカギ」 「琉米親善のカギ」 と称した宝くじを売り出したこと等が載っている。 女子学生はというと街頭だけでなく、 行政府にも乗り込み、 官吏たちも女子学生群を見て右往左往、 あわてて金色のカギを胸につけたという。 宣伝のためサウンドカーを先頭に3台のトレーラに乗せて市内を走る賞品の高級車は人々の目を引いた。 その頃の思い出として、 車の特大のキーを持ったアメリカの女性が外国車に乗って、 はなやかに街をパレードしていたように覚えている (中学生だった私はそれが図書館建設の資金の一部とは知らずに)。 宝くじは5月26日のペルリ来琉百年記念祭に発表された。 「琉大風土記」 によれば一等に当った人は高校の教諭をしていた金城金蔵という名前からしていかにもお金に縁がありそうな人で、 当時話題になったそうである。 賞金の120万円は琉大に20万円、 その他に育英資金と赴任校の図書館建設資金等に充て、 本人には一円も入らなかった。 それどころか周りからお金を貸してくれと言われたり、 寄付の依頼がきたりして身内にとって良いことではなかったという。 ポスターは美術の教官の安次富長昭先生 (当時学生) のデザインで原本は現在図書館に保管されている。 この純益金 (4,515,250B円) と住民の寄付金 (451,512B円) に加えて不足分はファウンデーション理事長ディフェンダーが琉球銀行から借款することで1954年6月17日に着工、 総工費2,175万円で眼下に竜潭池を見下ろす見晴らしのよい丘に5階建の総タイル張りの近代的な図書館が1955年12月10日に竣工し、 翌11日に軍官民多数参列のもとに盛大な譲渡式が挙行された。 図書館は初代学長の志喜屋孝信氏の名にちなんで 「志喜屋記念図書館」 と命名され玄関には志喜屋記念図書館の銘板が英文と和文左右別々に掲げられた (その石板は現在の千原団地移転の際に取り外され、 附属図書館の戦後資料室に保管されている)。 志喜屋記念図書館から見晴らせる竜潭池はいにしえの王朝時代に中国の冊封使 (中山王を冊封するために来琉した中国の使者) を歓待するために爬竜船競争や御冠船踊り (宮廷舞踊) を催したという。 年中、 池水満々とたたえ竜潭池に映る附属図書館の影も見事な光景であった。 1948年12月来島したマッカーサ指令部琉球局長ジョン・H・ウェッカリング准将と山城文教部長との間で首里城跡が琉球の政治と教育に深いところから、 大学を設立するのにふさわしい所との意見の一致を見て、 首里市民の大多数の賛同もあって、 決定した。 現在の図書館長室に掲げている英文のマッカサー書簡 (写し) に首里城に創設した琉球大学の建学のいわれが記されている。 元同窓会長の和気氏によれば1950年5月に開学した当初は校内は至る所に砲爆弾にえぐられた深い穴があり、 その破片は王城の瓦礫と共に無数に散在して、 その穴埋めのために学生は労務を提供したそうである。 来る日も来る日も労務に追われ、 現実と理想のギャップで学業を中途断念するものも多数いたという。 1946年訓練学校として発足した具志川村にあった外国語学校と文教学校が首里に移転してきた。 夏の炎天下で職員、 学生が一丸となって奉仕して職員の住宅の建設にあたった。 こうして両校を併合して開学した琉球大学は1950年5月22日に、 英語学部、 教育学部、 社会科学部、 理学部、 農学部、 応用学芸学部の6学部編成の規模で1、 2年次合わせて562人の学生、 44人の教官を擁し、 戦前、 戦後を通じて沖縄で初の大学がスタートすることになった。 その年11月4日に当時の沖縄民政府知事の要職にあった志喜屋孝信氏を初代学長に迎え、 大学としての陣容が整った。 それまでの間、 安里源秀氏が学長代理として就任した。 当初はどの学部でも英会話の授業があったという。 附属図書館は創立当初は1名でスタートし、 1952年は2名、 53年5月に4名増員、 53年12月に図書館の組織は司書係と奉仕係の2係で構成し、 司書係は庶務、 会計、 目録、 分類等を、 奉仕係は閲覧、 貸出、 参考、 印刷、 製本、 読書相談等を担当した。 54年には定員13名となり大学図書館としての基礎が確立された。 56年に総務係、 整理係、 運用係の3係16名に掃除婦2名を加えた18名になり、 その業務内容は総務係は庶務、 渉外、 受入等、 整理係は分類目録、 図書の保存、 曝書、 防虫、 運用係は図書の閲覧、 貸出、 参考業務等であった。 57年2月、 3名の増員を決定、 定員21名になった。 1954年4月より、 夜間開館を午後9時30分まで、 2名のアルバイトと職員1名計3名体制で実施した。 開館時間の延長と図書の充実に伴い、 人館者が急速に増え、 閲覧室の外にあふれ、 館内の混雑を緩和するため、 閉架式閲覧方法が採用された。 館外貨出状況は1953年度は12,031冊であったのが1954年度は29,256冊に倍増し、 図書費も1952年度より年間2百万B円になった。
  • 中央図書館制度
     1953年7月1日に中央図書館制度を採用、 それまで学部にあった図書を図書館で集中管理して、 学部割当て予算を一元化して、 図書館で運営する方針に改めた。 ここに今日の中央図書館制度の基礎が確立されたのである。 又、 県民にも広く資料を開放、 創立当初の頃から地域に開かれた図書館として親しまれてきたのである。
  • 宿直制度
     木造建築時代の図書館は頻繁に盗難事件があり、 1954年2月後半から宿直制度を導入、 図書館員2名を交替で配置して、 盗難及び火災防止に努めた。 盗難の状況はコソ泥的性質のもので、 警備員は遠くにいたため管理が十分行き届かなかったことによる。 4月の夜間開館 (9時30分閉館、 職員午後10時退庁) の実施により宿直制度を中止し、 替わりに警備員が午後9時30分から翌朝まで勤務するようになった。
  • 建物
     当初図書館は新館5階建の1階から3階まで使用し、 3階閲覧室の一部に新聞雑誌を置いていた。 1階は蔵書室並びに閲覧室、 中2階は蔵書室、 郷土資料室、 3階は会議室並びに閲覧室、 4階は教育学部並びにミシガン大学教授研究室、 5階は文理学部教授研究室になっていた。 火災復旧後、 4、 5階の教官研究室を廃止し、 5階をホールとして講演、 英語弁論大会やクラブの発表会等に利用したが、 1962年以降全階図書館として使用することになった。
  • 高校生の図書館利用
     首里、 那覇市内の高校生が自習を目的にした本館利用が増え、 学内の利用者の座席数も余裕のないことから、 その対策のため、 1958年1月に市内高校長あて資料の利用に対しては出来る限り閲覧の便を図るので、 閲覧希望の図書名等の証明書を各高校で発行し、 本人に携帯させるよう協力依頼している。
  • 雑誌名の募集
     1958年2月、 図書館発行の雑誌に、 モダンな名前を付けるべく、 誌名の募集のため図書館員に賞金1等百円の懸賞金をかけた (4月にU. R. L. レビュー第1号誕生)。 当時は、 出版物の発行に際して、 行政主席の認可が必要であった。 学内の職員、 学生を対象にその内容は、 「図書館の問題」、 「書評、 出版案内」、 「入荷図書リスト」、 「重要記事索引」 等である。 隔月刊で1,500部の範囲の刊行の申請を3月に行ない、 4月に第1号を発行している。
  • 読書調査と図書館に関するアンケート
     1953年10月に読書週間、 志喜屋記念図書館設立の参考に資するため学生の読書に対する調査を行い、 図書、 雑誌の読書傾向、 図書館の利用度、 希望を聞いている。 1958年5月5日から10日までの1週間、 学生に対して来館の目的、 目録カードの利用の仕方、 貸出方式、 開館時間、 請求図書の有無、 その他図書館に対する要望事項等調査している。 さしづめ今日の自己点検評価のアンケートのはしりというところであろうか。
  • オリエンテーション
     1958年4月の新入生へのオリエンテーションでは喫煙室以外での禁煙、 図書の保存上、 塵挨の防止は必要なので泥靴は十分洗い落として入館すること、 館内の湿気防止の為、 雨具類は閲覧室に持ち込まないこと等を注意している。 その他、 館内の出入り口として1階北側玄関 (竜潭池側)、 3階玄関、 及び3階東側通用門の3カ所を指定して、 それ以外の出入りを禁じている。 館内での利用は閲覧証と引き換えに 「図書借覧証」 に記入して係員より図書を受け取る出納式であった。 1階は書庫と開架図書があり、 2階 (中2階) は洋書庫、 3階は雑誌、 辞典、 指定図書、 郷土資料等の貴重図書、 全集等の高額図書が配置されており、 自由に閲覧できるが貸出は出来ない。 館外貸出は1人2冊まで10日間で他に予約者がない限り2回まで延長出来る。 オリエンテーションは新入生566名に対して、 図書館で学部別に3つにわけ、 1番多い文理学部は5階ホール、 教育学部は1階閲覧室、 農家政学部は3階雑誌室で3名の図書館員が各々分担して行っている。
  • 学生アルバイト
     創立当初から学生アルバイトを採用して、 ラベル張り、 基本カード、 閲覧カード作成等にあたり、 その他書架の整頓等に割り当てられた。 1953年当時、 学生アルバイトは時給10円 (B円) で個人差はあるが月平均40時間弱 (400円) 勤務している。 1954年5月には時給15円 (B円) になっており、 その頃の図書館職員の給料が月額平均4,000円弱であった。 この中から卒業後図書館職員になった人もいる。
  • 職員研修
     機会ある毎に講習会を開き、 1953年に図書館職員の資質向上を計るため図書館を2日間にわたり閉館して午前9時から午後4時まで、 館内で第1回の実務講習会を行っている。 講師は平良氏が図書館経営と図書目録法を、 大宜見氏が図書分類法と図書館奉仕を担当している。 又、 司書養成のため本土夏季講座に参加、 公費及び自費で職員を派遣している。1957年12月26日から27日まで本館の司書を講師にして、 図書館1階で研修会を開催した。 大学職員以外でも広く学外の中高校教員、 文化会館職員等に無料で門戸を開放して、 図書分類法、 図書目録法などを指導した。 午前は図書分類法を大城重雄氏が、 午後は図書目録法を山田勉氏 (部制後の初代閲覧課長) が担当し、 2日目は午後の研修終了後、 研究討議に入り終了している。 2日間の研修期間に学校図書館関係者など多数の教員が参加している。 又、 夏季の休暇を利用して、 図書館職員の研修を実施し、 職員自身が講師になり担当する業務を各々2〜3時間程度説明している。
  • 火災
     新館設立まもない翌年の1956年9月3日午前9時頃、 図書館4階にあるミシガン派遣団教官室から出火、 4階、 5階は全焼、 3階は辛うじて類焼を免れた。 図書3,000余冊が焼失し、 被害総額千数百万円であった。 火災後、 篤志家の寄付があり、 火災保険金と一般見舞金及び琉球政府補助金により、 翌年の7月には4、 5階は完全復旧した。 出火の原因は漏電で当時はハシゴ消防車がなく、 4階まで放水が届きかねて消火に手間取り5階まで類焼したといわれている。 火元に届かない消火ため、 やじ馬から投石され窓ガラスが割れた。 その為、 かえって空気の流れが良くなり、 折りからの台風の余波による強風などで益々火の勢いを増したという。 火災は軍民消防隊員の協力で2時間以内で鎮火した。 「琉大風土記」 によると、 キャンパス内のKSARラジオでも実況放送されたという。 3日の夕刊によると、 首里高校では警報とともに授業を中止して、 高校生が現場に駆け付け、 列をつくって図書館から手渡しで館外へ資料等を運びだした。 伊波文庫など貴重な蔵書は幸い難をまぬかれたが、 4階、 5階にあった文理、 教育学部各教官室の貴重な地図類や教官の多年の研究資料、 学術資料が焼失した。 ラジオの呼び掛けで5日の午前9時から那覇近郊の職員、 生徒約300名が集まり、 4、 5階のガラン堂になった焼け跡からスコップでかいだし、 バケツ等で片付けたが、 復旧まで1ヵ月を要した。
  • 郷土資料
     先の大戦で郷土資料の入手は困難を極めているが、 1955年5月20日、 ロックフェラー財団より図書購入費として琉球大学ファウンデーションに5,000ドル (60万B円) の寄付があり、 その中の15万円で伊波普猷文庫を購入した。 1957年5月には島袋源七氏蔵書115冊を受け入れた。 その他、 国会図書館、 東京大学、 京都大学、 九州大学、 鹿児島県立図書館所蔵の文献収録にもマイクロフィルムその他の複製等で人手して、 各図書館の好意ある援助を受けている。
  • 国際交換業務
     1886年ブリュッセルにおいて、 各国の図書館の国際相互協力の下に広く文献資料の交流を計る目的で 「公文書、 学術的刊行物の国際的交換に関する条約」 が結ばれ、 日本は準条約国として参加している。 1955年7月14日より米国議会図書館、 ニューヨーク公共図書館とは相互に文献交流を目的として始め、 紀要類を交換受入れ、 当館からは琉球内の出版物、 政府刊行物、 大学内の出版物を送付している。 つづく
  •   (とよひら ともみ:図書館専門員)


    宝くじの宣伝用ポスター

    当時発行されていたB型円軍票(B円)

         宝くじの宣伝用ポスター       当時発行されていたB型円軍票 (B円)