南洋庁発行「国語読本」の中の「白銀堂」

 

 

法文学部教授 仲程 昌徳

 

 昭和十六(一九四一)年六月十七日、石川達三は、南洋神社に参拝した後、パラオ公学校を参観。公学校は「島民の子弟を教育する国民学校で(中略)南洋庁規定の教科書によって内地と同じような小学校教育が、全部日本語で教えられ」ていた。石川を迎えた公学校の校長は、その時間を「唱歌の時間」にしたといい、高等科の女生徒たちを唱歌室に集める。校長自身がオルガンを弾き、少女たちが歌い始める。

 石川は、「それが立派な日本語であったことに、私は裏切られたような気持ちがした」という。そして「少女たちは愛国行進曲をうたい、軍神広瀬中佐をうたい、児島高徳の歌をうたった。日本の伝統を感じ得ないこのカナカの娘たちにとって、八紘一宇の精神や一死報国の観念が理解される筈はないのだ。美しい鸚鵡の合唱であった。しかも少女たちは懸命に声を張りあげてうたっていた。歌をうたうことの生理的な喜びに満足していたのではなかろうか。私は少女たちのいじらしさに胸が詰まった。これがもしも彼女たちの日本人になろうとする努力の表現であるとすれば、その憐れさはひとしほである」と書いている。それだけではない。

 軍歌のあと、校長はオルガンを離れて立ち上がり、「最後にひとつ校歌をうたおう」という。石川は、そのあとに起こったことを、次のように書いている。

 生徒たちは唱歌帳の頁をめくった。校長は 白墨を握りながら拍子をとった。私は生徒の唱歌帳をのぞいて見た。五線紙におたまじゃくしを書いてその下に片仮名の歌詞をつらねてあった。コーラスははじまった。

    みいつかしこきすめらぎの、深き恵みの露うけて、

    椰子の葉そよぐこの丘に、そ丶りて立てるまなびやは、

    日毎に集う我等の庭ぞ、あな嬉しやな、嬉しやな。

私は悲しくなって来た。元気なコーラスは ますます元気に、楽しげに第二節に移った。

    天恵うすきこの島に、盲人のごと産れきて、

    西も東も知らざりし、我等が眼にも日はさしぬ。

    みなまなびやの賜ぞ、あな嬉しやな、楽しやな。

 この歌を作った人が誰であるか、私は知らない。ただ、その作者の支配階級意識に驚嘆 した。そしてこの歌を嬉々として歌う少女たちを涙なくして考えることはできなかった。 天恵うすき島に盲人のごとく生まれて、西も東も知らなかった、この民族の悲劇は、スペ インに占領されドイツに譲渡され、さらに日本の統治を受けていま、この事実だ。しかし 私は疑う、この少女達にかくも悲惨な民族の悲劇を教え自覚させる必要があるだろうか。 こういう侮蔑的な歌をうたわせて恩に着せる必要がどこにあろう。

 昭和十五(一九四〇)年二月二十八日、丸山義二は、「サイパン公学校」を見学に行く。 「学芸会」があるというので、いい機会にぶつかったと思い喜ぶが、それが実はそうではなかったことを、本科一年生だという男の子によってなされた「歓迎の辞」で気付く。「開会の辞」ではなかったのである。そして丸山は、次のように書いている。

 アクセントは少々訛るがハッキリした日本 の標準語で、「東京のお客さま、お客さま方には・・・」と、その男の子が気をつけの姿勢でいい出した時、私は顔をあげていることができなかった。耳をふさぎたいような気がし、私は顔を伏せた。何が「お客さま」だと思った。私たちの方こそ「お邪魔」にあがったのであり、まことに相済まぬという態度で、かれらがいかに教科をきき、いかに教科を理解するかを傍から静かに見学するのがほんとうなのだ。かれらの好意は廊下での私たちへの挨拶で十分すぎるくらいである。先生は自分の可愛い生徒たちに何という卑屈な言葉をいわせるのであろう!「東京のみなさん」ならまだしも、「東京のお客さん」とは、言語道断だと思った。せめて教育だけなりと、一日も早く、この種の態度を改めてほしいものである。

 丸山は、東京に帰ってからそのことを知人に話すと、「センチメンタル」だと一蹴されるが、「妥協できない」といい、「日本人になりたい」というチャモロの切実な訴えや「新附の民たるがゆえの情けなさ」に思い及ぶ。さらには南洋群島文化協会野口正章が「チャモロは何を求むるか」で指摘している「一般在住内地人のかれらに対するいわれもない差別待遇ないしは蔑視的な態度」について触れた一文を引用したあとで、「ゆうべの島民の家の『良家の子女』といい、今またこの公学校の学芸会といい、私の胸は鉛をのまされたように重かった。かれらにこの屈辱をあたえているものは何か。その何かのうちに私自身がまじっているのだと思うと、私は、自分で自分がいやらしかった」と書いている。

 石川や丸山は、多分少数派であったが、軍歌や、校歌として「侮蔑的な歌をうたわせ」恬として恥じない教育、さらには「卑屈な言葉をいわせる」教育、そのような教育がなされていることに対し、いち早くそれを「島民社会の特殊性に対する考慮の不足」だと喝破したのに矢内原忠雄がいた。彼は次のように書いている。

 公学校の教科目は修身、国語、算術、地理、理科、図画、唱歌、体操、手工、農業、及び家事(女)であり、その大要は、小学校に準ずるものであるが、右の中最も力を注いで居るのは国語であって、本科各学年に於いて毎週授業時間の約二分の一(十二時間宛)、補習科に於いては約三分の一(十一時間乃至十時間)を国語に当てるのみならず、凡ての学科の教授用語にもすべて日本語を用い、助教員たる島民が授業を担当する場合にも島民語を用いしめない。国語中心の教育の効果として数えられる点は、(1)各主要島群毎に言語を異にする島民に対して共通語を与うること、(2)官庁及び日本人の事業若くは家庭に雇用せられ、又は商人との取引上実益を得ること、(3)日本語を通じて近代文化を吸収する機会を得ること等にあるが、かくの如き国語普及政策はひとり南洋群島のみならず、我国の諸植民地に共通せる教育方針であって、根本に於いては同化主義政策の表現と解しなければならない。又小学校(日本人児童)と公学校(島民児童)との間に教員の転任を自由に行うことは、一応は日本人教育と島民教育とを一視同仁するの趣旨を現すものではあるが、往々島民の風習や思想について理解浅き教育を施すの弊害を招くことなしとせず、前述の徹底せる国語教育方針と相待って、島民社会の特殊性に対する考慮の不足を感ぜしめる。

 矢内原は、そのように「公学校の教科目」で、もっとも重要視されているのが「国語」であるとして、南洋庁が何故にその「国語」に力を注ぐのか、その意図を明快に解説している。矢内原が南洋群島調査を行ったのは昭和八(一九三三)年。当時用いられていた南洋庁発行になる「国語読本」を矢内原は持ち帰っている。

 矢内原の持ち帰った「国語読本」が、本学附属図書館内に開設されている「矢内原文庫」に収められていることは、あまり知られてないのではないかと思うが、本稿で触れたかったのは、実は、その「国語読本」と関わることであった。

 矢内原が持ち帰った「南洋群島国語読本」は、本科用巻一から巻六及び補習科用巻一、巻二の計八冊であるが、補習科用巻二の最後「四十七」に、「手が出る時にわ意地を去れ。意地が出る時にわ手を去れ」(いじぬいじらーてーひき、てーぬいじらーいじひき)ということわざを基にした伝承「白銀堂」の話が収録されていた。補習科用巻二は公学校用最終の国語読本だと思うが、その最後の最後に沖縄の伝承を収録したのは、何故なのだろうか。

 すでに紙幅が尽きようとしていて、この興味ある課題についての検討はおあずけということになるが、そのことを考えていく上で、忘れていけないのが「在住邦人の本籍別人口を見るに、昭和八年四月一日現在邦人人口三〇、六七〇人中、沖縄県人は一七、五九八人であって、五割七分を占める」(矢内原『南洋群島の研究』)ということ、そして「島民にいわせるとその(人種・引用者注)序列は、内地人、島民、沖縄県人ということになるらしい」(梅棹忠夫「第四部 紀行」『ポナペ島 生態学的研究』今西錦司編著所収)というように、沖縄が見られていたという問題である。

 島の人口の半分以上を占めながら、「人種序列」として最下位に見られていた沖縄、そのことをまず押さえることから「白銀堂」物語収録の謎ときは始まっていくのではないかと思われるが、委任統治下にあった南洋の「教科書問題」を見ていく上においても、まず「矢内原文庫」に収められた数多くの南洋資料の閲覧に通う必要がありそうである。(ちょっと宣伝めくが)附属図書館には中々のものが収められているのである。

(なかほど まさのり:日本近代文学)